思うに、作品における神獣の存在意義とは、はなはだ人間中心的な解釈だが、それが「読者の存在感覚を満たす適当な対象」ということである。神獣という存在の疑わしいおぼろげな対象は、何かを読みて相対的に存在感覚を得られる人間に、その答えの既得感を容易に惹き起こすことなく、存在の疑わしさが知的運動の絶え間ない持続を要求する。これは論理の骨格を解体し、想像を方円自在に形の変わる水のように自由にもする。これらは汲めども尽きぬ泉のように、間接的に、読者・人間にきわめて絶対的な存在を保証する。というのは意味が記号に何かを読むことで存在する相対的な関係性であるように、人間精神もまた記号に何かを読もうとすることで存在する相対的な関係性であり、何かを読もうとしなければみずからの存在感覚は失われてゆくからである。記号に何かを読まない動物にとって意味は存在しない。何かを読もうとすることで人間はみずからの人間性を維持しているのである。これについて詳しくは『意味の意味|意味とは何か?』を参照されたい。
言わずとも、神獣のみならず、存在の疑わしさはあらゆる対象にも言える。けれども人間が社会生活をするうえでは、それらは(疑う余地もなく)見過ごされてしまうものである。石橋を叩いて渡るように道路を歩一歩づつ安全確認する人はいまい。
とりわけ中国の作品(獲麟に筆を断つ孔子、『文心雕龍』を著した劉勰など)において、神獣の比喩をあえて用いるのは、神獣という存在の疑わしさによって、想像を自由にし、知的運動の絶え間ない持続を要求し、その必然の結果として、読者の存在感覚を満たす、からだと私は考える。
令和四年 二月
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