文学の旅に行きませんか

新しいことへ挑戦を

詳しく知る

クリスマス・イヴの出来事

この記事は約5分で読めます。

 

カーテンを開いてみると雪景色であった。この地域では雪が積ることは稀である。近所の柊や椿の生垣などは雪に覆われて、夏空の浮雲のようになっている。子どもは早朝から雪を丸めて投げあったり、雪だるまの大きさを互いに競ったりして、楽しんでいる。それを傍目に、おれ絹糸シルクのような路面を眺めながら、この雪どけを待ち望んでいた。それは配達の仕事をしたいためである。クリスマス・イヴの今日は一件あたりの報酬が非常に高額であったのだ。

十時には日光が兆した。交通量は増え、白雪は車輪に踏みしだかれていった。その車のわだちを通れば二輪車でも運転できる状態であった。しかし雪路ゆきみちを二輪車で走行するとは、命知らずの愚か者であり、また親不孝者でもあろうが、己は、それがしが高い所に登るように、雪路の運転という生死の際における錯乱を求めていた。この雪景色が、己に一時の浮気な興奮をもよおすのだろう。酔っぱらいがそうであるように、興奮した人間は何をしでかすか、容易には分からぬものである。

雪、それからクリスマス・イヴの影響もあって、注文数は多く、配達員は少ない。スマホは赤子のようにけたたましく鳴く。で、とにかく忙しい。己は配達時刻に遅れて負い目になるのが嫌なので、とにもかくにも急ぐ。雪路をスリップすることもなく、仕事は順調だった。ところが一転、この非常に慌しい最中に、ある事件が己の足を止めるのであった。

その配達先は、ある団地の三階である。急いでいる己は二輪を止めるや忽ち団地のエレベーターにむかって走った。エレベーターの戸は閉まりかけていて、なかには自転車を載せた中年がひとり乗っている。己の走る姿を認めてもエレベーターの〈閉〉ボタンを押している。エレベーターが閉まるにつれて己の姿は中年の視界から徐々に消えてゆくが、己はすんでのところで外から〈開〉ボタンを押して、この中年の眼前に再び姿をあらわした。エレベーターのなかは窮屈そうではあったが、人ひとり入る余地はあったので、己は乗りこもうとした。その途端、なかの中年は大声をあげて「入るな!」ーー勢いある怒号を己にあびせかけたのである。

己の目は今朝の雪景色をみたように丸くなった。しかし、急いでいるので、お構いなしに、ずけずけとまた乗りこもうとしたところ、中年は憤然として、「入るな!」、「狭いだろ!」と云って、己の乗車を頑に拒む。まあなんというやつだろう。己は年少の者であるが、この中年の荒ぶる態度に腹を立てて、エレベーターの戸が閉まるのを肘でおさえながら、「もう少し、言い方というものがあるでしょう。狭いから入らないで欲しいとか、控えめに言うことはできませんか」といった。相手の感情の熱を冷ますには、こちらが冷静に接するべきで、この語気には理知の冷たさがあった。しかし相手の目を真剣にみつめながら、十秒くらい経っただろうか、己はまわりに階段を探したがみつからず、沈黙の支配するなか、中年は〈閉〉を押して昇ってゆき、やがて下降するエレベーターを待った。

この団地の配達先のお客さんは、おっとりとした面持であった。いま起きた事件なんかには無縁なほんわかな雰囲気である。商品を手渡すと微笑んでくれた。こういう穏やかな感じのお客さんは、たとえ予定時間内に配達されなくても、なにも文句をいわず、嫌な顔ひとつしない。己はこういう善意の人たちを最期まで愛したいと思った。

さてその配達完了後も己は急ぐ。次の案件までの時間は僅である。下まで降りてゆき、次の配達先をマップで確認しながら駐車場へかけるところだった。例の一件はもう忘れていた。が、そこで驚いたことには、例の中年が降りてきたことだった。

この中年は見るからに喧嘩腰で、己の前に踊りでた。行く手を阻むようにして両腕を拡げる。「なぁ、お前、ちょっと話そうか。お前、もしな、オレが身体に刺青いれずみしとっても、ああいうこと言えるのか?」と云いながら、さも身体に刺青をしているかのように上の服をめくってみせるのであった。臆すると思ったのだろうか。己は、「僕はだれに対しても同じ態度で接します」ときっぱり言った。しかし中年はとわずがたりになにか云っている。

程なくして、中年はこれみよがしに首に吊るしていたカードを手に、云った。「オレはな、障碍をもっとるんだわ。だから、エレベーターに乗るなと、言ったんだ。オレの言い方は、わるかったかもしれん。オレは障碍をもっとるんだ、コロナもあるから、乗るなって言ったんだ」。

中年の首に吊されたカードをみた己は思わず、あろうことか、尋常にあやまった。あやまったのは、多分にその場を早く切り抜けたいという感情ゆえであったが、無意識には、自分の健康に対する引け目が加わっていたかもしれない。されば障碍への同情や憐憫れんびんは、そこからしてみると、人間存在が哀れであるゆえに元来意味を成さないのであるが……

互い違いに己の非を認めることが、和解のになったのかもしれない。たぶんこの中年は孤独に生活して疲れているのだろう。寂寥に悩み、だれかとゆっくりと話をして、それか先のごとく打っ突かって、この孤独の無聊をなぐさめたかったのかもしれない。

中年の語調はもうすっかり緩らいでいた。

中年は己の肩をポンと叩いて、「な、おちついて話そう」と近くの集会室に導こうとする。己は次の配達に急いでいるものだから、早々に、しかし丁寧に、この件を落着させようと「僕も、強引にエレベーターに乗りこもうとしたのが、いけませんでした」と言った。中年は「オレも、もう少し、言い方というもんがあった。こうしてお兄ちゃんと喧嘩したってなんにもないんだよ、喧嘩なんてしたってしょうがないんだよ。お兄ちゃん雪のなか一生懸命に配達してるのに。オレも持病もちだからね、ついあんなことをいったんだよ。ごめんな」。そして握手の手を己に差し出した。

二人は握手して笑顔になった。しかし己は急いでいるので、次の配達にむかって、走って行った。背後で中年は「がんばってな」といって手を大きく振っていた。己は恥ずかしいので小さく手を振った。この日一日、憂鬱が己を襲うことはなかった。それはこの非日常の出来事と、何よりもあの握手に秘密があったのだろう。

己の外界を隔てる皮膚がまたべつの皮膚と結着する。これまで外部であった対象が自己のうちに取り込まれ、そこで対立を解消し、一時の合一感を得る。それが同質的なものであるほど、濁りなき他の存在領域が加わって、そして強化される力を錯覚する。この感覚はなによりも生物固有の鼓動と温感とがキーとなって生まれるものだろう。

 

令和四年 十二月

 

関連するもの:

 

アイデア
「本を読むのが苦手」という方におすすめ!
Amazon Audible(本は、聴こう!)

本を読むのが苦手......という人にこそおすすめ!
今話題の作品から古典作品までをプロの朗読で楽しめる!
12万を超える作品が聴き放題!
無料キャンペーン開催中!
音楽のように、いつでも、どこでも本を再生できる!

新しいことに挑戦する勇気をもって、いまオーディオブックで本を聴きはじめてみませんか

ライフカクメイをフォローする
ライフカクメイ

コメント

タイトルとURLをコピーしました