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「違う」は「ちがう」か「たがう」か|ちがうとたがうの意味を解説

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ちがうとたがふと違うと手換ふと

「違」の字の訓義を調べてみると、「違」の訓義には《一、めぐる。二、上下に異なる方向にめぐるので、たがう意となる。そむく、もとる、ことなる。三、相違い離れることから、さる、はなれる。(以下省略)白川静『字訓』より》とある。現代における「ちがう」の表音はもと「たがう」(手換ふ)のようである。

漢字に形声文字があるのは、あいうえおなどの一音一音に意味があるからであろう。一音を変えると、その文字の意味もまた変わると考えることができる。もし、ちがうという訓み方に、比べてみてわかるという差異の意味がなければ、「これはちがう」と指摘しても、ちがいを何も指摘したことにはならないであろう。

先にしるしておくとーーこれは一般性がなく参考までに考えていただきたいのですがーー「ちがう」は図星を突かれたときに「そうでない(ちがう、ちがう)」といって自己防衛する弁解の意、または『枕草子』第一段「蛍の多く飛びちがひたる」に見られる別々の方向にめぐる意。また「たがう」は「男」と「女」にみられるように、ものごとを比べてみてわかる差異の意である。なぜこのようにいえるかを含めて、以下に詳しく記すことにする。

 

「ちがう」と「たがう」

 

「ちがう」と「たがう」とは、それぞれの語頭、「ち」と「た」とが異なる。では「ち」と「た」とは、その音にどういう意味があるのか、また、後続の「が」と「う」とにどういう意味があるのか。

 

「ち」

ちがうの「ち」は古くより「風」「乳」「血」「霊」「千」という漢字に変換されている。白川静の『字訓』によると、風(ち)、霊(ち)などは自然の生命の息吹きそのものであると考えられ、国語の「ち」は、いわば汎神論的な世界観を背景にする語である、とされる。ここでは「ち」を擬声語として考えてみる。「ち」は舌打ちをするときになる音である。舌打ちとはいらだちをあらわすしぐさであり、いらだつ不快の感情を(「ちっ」といって)内的に昇華させることであり、心理学の用語で防衛機制のひとつである。

 

「た」

たがう(手換ふ)の「た」には右手左手の「手」の字があてられる。これも漢字を考えると意味がよく通じないので、その音声を考えてみよう。「た」はペッと吐くときの唾、その擬声語である(白川静『字訓』より)。すなわち「た」は攻撃的で、不快の感情を外的に昇華させることをあらわす。

 

「が」

「が」には生命力それ自体が内包されているといえる。たとえば「外」という字は、「が」と「い」との組み合わせで、幸田露伴の『音幻論』によると、「イ」は〈元来、気息をいふ古邦語が「イ」で、それは尖状に外へ衝くというような気味のある音の質から自らそうなったものであろうが……〉とあり、「が」に内包される生命力ががいといってそとに向けられる、と解釈すると意味がよく通じるのである。

えてして外国とは外敵である。だから外は、自国を守るために用いるには好都合の語だったと察せられる。このほかにも獣動物の咆哮ほうこうに「ガォー」とあり、病状に「がん」(がをんで打ち消して、生命力の消失をあらわす)とあることから、「が」には、生命力それ自体が内包されているということができる。

かてて加えて、「が」という文字には否定というよりは、むしろ強調の意味がある(ように思われる)。だから「が」を逆説の接続詞に用いても、その文は順接に流れることになるので、その文は逆説にならず、意味はあべこべに、伝わりづらくなると考えられる。

ここで詳しく立ち入ることはこれまでにするけれども、「が」にはさらに二つの表音法があるようにも思われる。すなわち咆哮の「ガォー」と意気消失時の「がーん」とである。

 

「う」

「う」は、得、居、座などの漢字にあてられる。「得」は〈可能であること、手もとに獲得することをいう。ものを獲得し、持続することを意味する語のようである〉とある。「う」の音は、うなるときに「うぅ」と、またはみぞうち・・・・を受けて「うっ」というように、なんらかの状態を持続するときの音をあらわすと思われる。先の『音幻論』にも「飲めるやうな、塞ぐような、イのやうに衝くというところがなくならすやうな気味がある(中和するの意)」とある。

だから「手換たがふ」は、まず攻撃的な音の「た」で弱点(差異)を見つけ、つぎに「が」でみずからの生命力を示威し、そのような優勢な状態を「う」で持続または再認識すること、と考えると意味がよく通じるのである。

 

まとめ

 

何かを比較してみつけたその差異を「ちがう」というのは誤りかもしれない。誤りではなくても、その意味はよく通じないと思われる。それは第一に「ち」は舌打ちをする音で、いらだちをあらわすしぐさであって、不快の感情を内的に昇華させる意味であるから。そして第二に「がう」は生命力を得ている(よろこびの擬声語ともいえる)の意味であるから。だから「ちがう」とは、舌打ちという内的昇華によって、みずからの生命力が充足されていると錯覚を起こすものである。すなわち「ちがう」は意味の差異というよりは、何か誤解をはらすときに用いることばである。図星を突かれ、そうでない(ちがう、ちがう)といって、弱点を隠すような弁解の意をもつ。これに対し、「たがう」は「た」という唾を吐く音から、攻撃的に、その弱点(差異)を見つけ、「が」で生命力の示威を、「う」でそのような優勢な状態を持続または再認識するような意味ということができる。

 

令和三年 十月

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