私は都会から田舎へ越してから毎日、日記をつけている。しかしその日記の内容をふりかえりみると日常のありふれた生活が書かれているだけである。その無味乾燥さに反省の機会を得、日記とは何を書くものかその断案をここに記す次第である。
日記の内容|日記とは何を書くものか
そもそも日記とは何を書くものか。日常のどうしようもなくありふれた生活をたんたんと綴るものであるが、いやしくも読者を想定している以上、それは読者に恕しを得られるように内容を仕上げるべきであろう。作家の日常の平々凡々たる生活を言語にして濃縮し、過ぎゆく生活の一瞬の時空間をねじ曲げ引き延ばし、そこに意味と連関とを加えストーリーを創り出し、一瞬に無限の広袤をもたせ、読者に再現可能なかたちで還元する。それが日常生活の価値を再発見できるような内容であれば、日常とは何かを読者は省みられるにちがいない。それはつまり「日記の芸術化」である。
ここで自分は、日記とは何を書くものかというのを効用性から出発したことについて少し恥じている。しかし現代の現世主義を思うと、読者の恕し(信頼)を得んとする、読者への礼儀を思うなら、まず日記の効用性を記すべきであった。ところでよく「芸術は、自然を模倣する」と云われる。これは「芸術は、日常生活に潜在する」と言い換えることができる。然るに「日記の芸術化」とは、日常生活に潜在する芸術を、ダイヤの原石を見つけるようにいかに発掘し、そして研磨して、宝石の放つ光彩のごときものに仕上げるかを言い、その職人的な全行程が日記の内容となる。
日記の書き方
それで日記をどのように書くべきか。だいたいの人びとは宝石のまばゆさに目を惹かれてしまうものである。その舞台裏の宝石の出来上がる地味な過程に目を惹かれることはない。それだから現実についての理解も一向に進まず、現実ならぬ現実にいつまでも拘泥している。日常生活の価値を再発見できるのは、言うまでもなく後者である。したがって日記は、主役ではなくそこにスポットライトを当てる照明係に注目するように、脚光を浴びるところではなく目立たぬところを強調して書くべきである。舞台上の主役がスポットライトの効果によって主役を演じられることを思えば、照明係すなわち日記の書き手とは舞台進行をつかさどる脚本家とも言える。
令和四年 一月
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