大衆を考えることは、自己確立に至るひとつの方法である。大衆を考えることは、この世に生きる自分は何者か、その存在意義を明らかにすることでもある。だから大衆を考えるときには、当然、その漠然とした群像の中の視点に立たなければならない。
自分は何者か?この問いは、たぶん誰もが考えたことがあろう。その答えを導くために、自分の所属や職業、ジェンダー、趣味などの「概念」を手がかりにして自分を構成するのではあるが、それで単純に自分は何者か、その答えを知るならばこの世に大衆は存在しない。
「大衆」を考えるにあたって「概念」ということばがヒントになる。概念とは、私たち人間が社会生活を営む上の言語空間(コミュニティ)である、あるいは人間が身にまとうている衣装である。たとえば会社員という概念は、そこに参加する大勢を一括するものである。会社員という概念によって、既存の参加者である会社員は、新しい参加者である新入社員を、その概念の衣装をまとう同類として認識することができる。もし概念がなければ、この現実を人間的に識別することはなく、この現実は分割も色づけもされない無色透明なキャンバスとなるであろう。
会社員という概念は大きい、といってもより大きなコミュニティに所属しているものが大衆というわけではない。もしそうならば日本に・地球に住むという概念をまとう人たちは皆大衆ということになるだろう。そしてまた、より小さなコミュニティに所属するものが非凡とかエリートとかいうわけでもない。ここから大衆というのが概念の広袤や概念の参加者のもつ金力ないし権力の強弱によって定められるものでないことがわかる。つまり一流企業に勤める金持ちが大衆ということもあるというわけである。
それなら大衆とは何か?先述したように、どの概念を身にまとうているかによって(概念の広袤、権力の強弱、貧富の差によって)、誰かを大衆と定めることはないわけである。
思うに大衆とは、既存の概念である言語空間の中に安住するものをいうのであろう。そして既存の概念空間の中で安住することはなく、その空間の広袤をたえず改造せんとするものが大衆から一線を画する人で、一人の革新家であろう。というのも、生命を構造的に考えると、ある生命が安定する条件としてその生命の構造を一定に保てるような力が必要であり、その力は通常、概念という言語空間を改造するような一人の革新家の力を超えるからである。つまり生命が安定するためには構造内部に安住する大勢が必要であって、この人間社会が(これも一つの生命である)安定していることを思うと、既存の概念に満足するものが多数存在し、それが大衆ということになるからである。
既存の概念に満足したり既存の概念に無批判に迎合したりするのであればーーポピュラーを指向するのであればーー自己確立に至ることなく人間生命を全うすることになろう。それは自分は何者か、自分の存在意義を知らずしてこの世から消えることでもある。自分は何者かを知らんとする飽くなき探究心が、自己確立に至る道であると私は思う。
令和三年 八月
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