人間はいかにして紳士になるのだろうかと、大いなる遺産のゆくえはさておいて、大いなる遺産を生み出すのだろう人性に、私は引き込まれてしまった。そもそも紳士とは何かと云って、それは蜃気楼のような、虚ろな空想かもしれないのだが、しかし光輝な、エロティックに魅力的な、どうにかして手にしたくなるものである。
生まれつきの紳士というのはない。人間は、後天的に折にふれて、紳士に魅せられて、いかにして紳士になるかとその方法を模索する。紳士というのは日本に合わないから、これを人格者とか教養人とか、自分の理想の人性におき換えるほうが良いかもしれない。
はじまりから紳士になるまでに、すなわち成長するために人間は、どれほど障碍を越え、またどれほど他者に迷惑をかけるのか。(その様子は『大いなる遺産』に丹念に描かれている)
生まれつきの紳士でなければ、生まれつきの自分の性質を拭い去り、いもむしが脱皮するようにして、新しく生まれ変わらなければならない。だけれども、友人や家族など社会的環境に囲まれた人間にとって、脱皮とは、意識していなくても、いまの環境を、いまいる環境の他者を(ピップがジョーを)否定して、新しい環境に躍り出ることだ。
ひとりびとりがその社会的環境を構成しているならば、一個の大いなる成長は(すなわち人間の脱皮は)他者や社会への大いなる災厄となり、大いなる災厄こそは大いなる成長となるかもしれない。
紳士になる価値はあるのかと、立ち止まって考えてみるのだが、紳士への、あるいは紳士のもつ特権への欲動は(ピップの、エステラへの愛は)抑えられないらしい。しかし背負って来た過去たちは愛しく、すてるにもすてられない。ピップの感情は目まぐるしい速さで一進一退の地団駄を踏むようだが、それでもピップは成長の道を選んで、ジョーたちを傷つけてしまう。
しかし、いったい、ジョーという男は(そしてもちろんビディも)なんと偉大な人だろうか!ジョーにふってかかった災厄はなかったように見える、また、さしてピップの道の障碍になることなく、心から彼を応援しているように見える。朴訥としていて紳士とは思われぬかもしれないが、ジョーのような、温和で、闘争心を内奥に秘めた、堅忍不抜の精神こそは、ほんとうの紳士だろう。
紳士とは、それがもっとも身近であるためにもっとも見過ごされるだろう目立たぬものなのだ。『大いなる遺産』は、後世の読者へ、真なる紳士とは何かを問いかけるためのディケンズの遺産なのだと、私は思っている。
令和四年 三月
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