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坂口安吾|『堕落論』の読書感想|現代日本が堕落する必要はあるのか?

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必要から生まれた言葉は純粋で、代用としての言葉以上に何かを物語るものである。坂口安吾の文体は奇妙で道化のようであるが、それがたわいもない細工物に堕していないのはどうしても書かねばならぬことで、書く必要のあることだからである。

堕落論の主張で展開される評論は、日本人の迷妄と日本文化の生みしあらゆる観念を粉砕する。天皇制や武士道、耐乏や倹約などの美徳、常識、義務や責任といったあらゆる観念を粉砕する。そうして何もかも粉砕されると何にも囚われない状態となり、「真実の大地へと降り立ちて人性の正しい開化をのぞむことができる」という。根抵こんていから根拠づけられずに築かれる観念は、同調圧力によって流されやすく、戦争にすら賛成するという血迷った考えを生み出す。二度の大戦の二の舞にならぬようにと、これを安吾はどうしても書かねばならなかったわけである。

戦後を象徴する安吾の文学は必要から出発しているが、この「必要」は近代の遺物であり、一種の神話であり、それが現代に必要であるかどうかは留意されるべきである。

むろん、かれは本書収録の『日本文化私観』で、「(日本精神とは何かを日本人である我々自身が論じる必要はないのである)。説明づけられた精神から日本が生まれる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない」といって、日本精神を方向づける一種の神話に釘を刺していることから、戦後の時勢に適った行動をしたまでであろうが。

思うに、現代では、言論の自由が認められるかぎり堕落する必要はないであろう。ただし、言論統制が戦前のように超国家主義に反する発言で重罪を課す厳重なものとなるならば、後の血祭りになる前に堕落して、みんなが真実の大地へと降り立たねばならない。然るに現代に必要なのは、言論の自由を妨げるような風潮や社会制度にわれわれが疑いの目を光らせることだ。それは大地に血を垂らさぬ安全装置となり、雲の上に安寧できるひとたちの幸せとなるはずである。

安吾の『教祖の文学』(小林秀雄論)は痛快であるが、現代に必要なのは小林秀雄的な骨董を愛する保守家であり、常識家である。そしてその必要は満たされているのではないかと私は考えている。

 

令和四年 二月

 

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