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小林秀雄|『モオツァルト・無常という事』の読書感想

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小林秀雄のように音楽を語ることは、なかなかにできることではあるまい。美は人を沈黙させる力があると言われる。けれども、もし人がその人格の美をもって作品と対するならば、美の幻惑の魔術はもはや魔術ではなく、大自然の一切は同一となり、かくて人は作品と遊ぶ境地に至るであろう。となりに友が在るように友と語る。亡き人を語るとは、あるいは現実においてみずから死の境地におもむくことかもしれない。死すべき運命にある生命が、音楽をふくめ芸術を語るとは、その志を根源的に純化してはじめて為せる魔術なのであろう。

「死は、多年、彼(モオツァルト)の最上の友であった」とは、小林秀雄彼自身をそこで語っているように思われる。モオツァルトのような歴史の怪物たらんとするもの、もしくは怪物になり行くものは、怪物を語る。そして怪物とは、かつて歴史が世に知らぬ無類の造物であり、天体に恒星のごとく位置を占める確固不動たる唯一無二の生命である。この私の空想は、というと結論を夢おちのように締めてしまうが、しかし現実が一種の夢であってみれば、夢おちとはいかようなことであろう。それは覚醒に近い生命の誕生する可能性を孕んでいるのではないか。言葉にできないと言われる美は、冒険のように空想で至るような何かではないか。

『様々なる意匠』から十七年余の歳月を経ると、『モオツァルト』に見られる精神は、普通の人間の成熟するさまを見るようであり、小林秀雄とても一切衆生というように無常である。彼の言葉を借りると、これは「人間になりつつある動物的状態」、その動物的生命の死という意識革命の真近に迫った状態の文体である。これを読む私が人間にはるか遠い動物的状態にあるのは仕様がないけれども、しみじみとした感情が喚起されるばかりである。『様々なる意匠』に見られるあの溢れんばかりの情熱は、血涙もろとも雪のごとく単純な結晶となり紙背に秘められているようだけれども、しかし情熱はこれまでの彼の人生に花びらのように散っているようで、日本の伝統芸能に見られるような芸に達しえていない。『モオツァルト』は、読み終えてみると、メンデルスゾーンの有名な悲哀の旋律、第一楽章だけで終わる未完成の作品のように感じられた。

 

令和三年 十一月

 

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