何事も虚しいものだと決めてかかって世界を眺むれば、どんなに新鮮な出来事でも忽ちに色褪せてしまう。ひとたび虚しさが意識されると、世界は演劇のように台本にしたがって進行するようで、いかなる悲劇的事件も、舞台進行に欠かせないことに思えてくる。人生史の全体は悲劇的出来事が延々とのべられる。そして人生の終盤の老年期には、その悲劇に一寸の救済の余地もないのだろうが、そのような背水の陣が紛れもなく生気を帯びる瞬間で、だからこそ老いの文学は嘘偽りのない純粋さでいっそうと真に迫って感じられる。
『黄昏記』のなかで、娘の三和が、母やえの無邪気とも傍若無人ともいえる態度にたいし「憎めぬ」というのも肯ける。たとえそれが老化のもたらす厄介な現象であっても、脳軟化症になったやえのひたむくありさまは他人を寄せつけない崇高ともいえる態度で、やえが意識は直接にこの現実世界に関わる。「演じている」という感覚を舞台役者から受けないほど、こちらの緊張の糸は引き締まり、虚しさを意識する暇もなくなって、直面する現実に、虚構の影はかなたにひそまりゆく。
真野さよの『黄昏期』は、老いることを、序章から終章へといたるまでに、やがてわれわれが介護者としても直面するだろう現実にむすぶようにして、笑いも苦しく絶え絶えに、逃れられない喫緊の問題として体感させる。私は不謹慎ながら、やえの言動に失笑を禁じえないでいたが、やがて来る自分の老いと、とくに両親の介護を思うと閉口した。もちろん介護施設に頼むことで負担は軽くなるだろうが、三和の考えるように親の世話のあれこれを血縁者以外の者に任せきるというのもどうかとも思い、読んでいて自分の道徳観ないし倫理観が試されているように感じた。
私のような若年の読者は親類の介護の問題として、老年の読者は来る自分の老いのすがたとして、これを真摯に受けとめなければならない。
令和四年 三月
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