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岡本かの子|『金魚撩乱』の要約と感想を書く

菱田春草の鯉魚

菱田春草の鯉魚

撩乱リョウランとは花が咲き乱れること。(花が無秩序に美しく咲くことである)

転じて金魚繚乱とは金魚が美しく成長することと言い換えられる。

岡本かのこの『金魚撩乱』は、およそこのような物語である。

一匹の仔魚が華麗なる変身を遂げて、美しい金魚に至るまでの物語、と同時に、複一と真佐子との感情の撩乱の物語である。

金魚屋の息子、複一。

金魚の神秘に惹かれる令嬢、真佐子。

崖下と崖上に隔てられている二人の関係は、ゆらぎひろごり拡ごり揺らぎ、揺らめき離れてはまた拡がる。複一の心境の変遷。真佐子の身体の変態。そして金魚の変色。

あぁ、撩乱。

仔魚から美しい金魚に至るまでの物語の完成度、複一と真佐子との関係の逆襲。感情の揺曳。

あらゆる要素が、美しい。しかしどうしてこの作品は芸術ではないのだろう。

どうして『金魚撩乱』は芸術ではないのだろうか?

こんなことを言うからには、芸術とはなにか、わかっていなければならない。

しかし芸術の厳密な定義は存在するわけではなく、また存在し得てもならない。

だから正直に言うと芸術とはなにか、わからない。

しかしここで「わからない」というのは、芸術とはなにか鮮明にわからないのであって、芸術の輪郭はこうだろう、ということはわかっている。

芸術とはそれでいいのである。

※なおここで芸術とは言語芸術をさしている

芸術の輪郭|わたしが思うところの芸術

芸術とは、わたしたちの感性が、人の手によって描かれたものを美しいと判断するのみではない。

芸術に含まれる思想の洗練度・徹底性(通暁性)による驚嘆による判断も含まれる。以上の判断をもって芸術とするならば、岡本かの子の『金魚繚乱』は芸術である。

だが、彼女の作品は芸術ではない。

なぜなら芸術には「神秘的な理解不可能性」が含まれているべきであるから。

これこそが芸術を鮮明にさせることを拒絶する要素であり、芸術をぼやけた、しかし魅力的な、わたしたちに真に美しいと判断させる、芸術の根幹をなしている要素なのである。

芸術に含まれている「神秘的な理解不可能性」とは?

「神秘的な理解不可能性とはなにか?」

正直なところうまく説明できない。

しかしあえて説明するならば、神秘的な理解不可能性とは、一本の線でつながれた物語が途中から途切れ、しかし、再び一本の線がまたまっすぐと延び続いている。この途切れた箇所は、一本の線が透明なマントに覆い包まれたように、途中からみえなくなる。わたしたちにも、また物語の創造者にも決してみえない。その途中は多様な解釈が可能であることがほとんどである。(この多様な解釈が可能な箇所が、いわゆる作品の余白と呼ばれるのである。)

以上が神秘的な理解不可能性の説明である。この神秘的な理解不可能性は、どういうわけか、芸術家当人でさえも説明できないのである。

岡本かの子の『金魚繚乱』は、この神秘的な理解不可能性が欠けているのである。だから芸術と呼べないのだ。

神秘的な理解不可能性は、川端康成氏の小説(『雪国』や『伊豆の踊り子』)を読むとわかる。

あくまでも感覚的にだが、よくわかる。

『山の音』は川端氏の最高傑作と称されているが、わたしはまだ精読していないため、単なる理解不可能のままである。

岡本かの子の『金魚繚乱』は美しい!

この作品は、美しい。岡本かの子の創造する金魚。複一と真佐子の撩乱たる叙情。また押韻の響きのここちのよさも。だがこの作品は芸術に求められる神秘的な理解不可能性が欠けている。

換言すれば、かの作品は物語の描写(完全)を徹底しており、わたしたちに充分な余白を与えないのである。それゆえ神秘的な理解不可能性が欠けていると感じるのである(と思われる)。

岡本かのこは、彼女の錬金術によって、一匹の美しい金魚を創生するに至らしめた。しかし遂には一手の芸術を創作するに至らなかったのである。

芸術は、その全体が説明可能の瞬間から、たちまち大衆作品に堕する。それが芸術の一種の法則なのだ。

創造の方法の批判|方法は創造的であるべきか

さて、『金魚撩乱』は昭和12年に創作された小説である。

当時も今も対蹠的な構造の建築物(小説)がたくさんある。

対蹠性はわたしたちが惹かれる普遍の原理であるのかもしれない。

が、概念の古さを感じ、本来創造的である芸術が、創造的でない、平たい大衆作品に堕する気がする。つまり、わたしが言わんとするところは創造の方法として「既成概念を用いて良いのか?」ということである。

しかしこの考方はある偉大な哲学者によって一蹴された。カントである。

彼は「芸術は対象の概念を機因として表現されねばならない」と判断力批判において述べている。

なるほど、小説や詩などの言語芸術が相合的な共創とよく言われる訳合はここにある。

つまり、芸術が真に描かれるところは芸術家(の心的能力)においてである。

芸術家の描いている対象をわたしたちに移すためには、その対象を生ぜしめるような概念を用いなければならない。

だから対蹠という方法は、ある対象を描くための機因(土台)なのであろう。

まとめ

岡本かのこ『金魚繚乱』の要約と感想というタイトルから芸術論に話は波及した。

『金魚繚乱』で描かれる世界、および金魚は、美しい。しかし、彼女はわたしたちに充分な余白を与えてはくれなかった。彼女はひとりで勝手に美しい金魚を描いてしまったのだ。

いくら巧緻に巧緻を重ねた物語でも、神秘的な理解不可能性をともなわない物語は、芸術ではなく、よくできた大衆作品に堕するのである。

神秘的な理解不可能性、それはどこか遠方から超越的な力が芸術家をあやつり作品に宿るようなもの……。

岡本かの子『金魚繚乱』を、ぜひもう一読