1936(昭和11)年に文芸雑誌『文学界』に掲載された『鶴は病みき』は岡本かの子(1889-1939)の回想録的小説である。岡本が文壇に登場する契機となった処女作品でもある。
主人公葉子がつづる「鎌倉日記」をもとに、そのころ文壇の大家であった麻川(モデルは芥川龍之介)と葉子との語り合いが、つぎなる文壇の名匠、岡本かの子の文学の方向と道程とを物語る。
『鶴は病みき』の要約
大正十二年の夏。一家が避暑する貸家を探すために葉子らは炎天下の鎌倉を歩きまわる。その貸家は鎌倉雪の下ホテルH屋にきまり、そこでは葉子が崇拝する文学者、麻川荘之介と同宿することに。
某日、葉子は麻川と文学論めいた話をするようになり、二人は日増しに語り合う機会が増えてゆく。なぜだか葉子は麻川の言葉や態度が気にかかる。避暑地鎌倉での生活をおえた葉子は、それから足かけ五年後の昭和二年、はじめて麻川と再会し、その人の変わりぶりに驚く。
その年七月に麻川は自殺する、その運命を五年前の避暑地鎌倉の生活で変えられなかったことに葉子は深く悔やみ、惜しみ嘆く。
『鶴は病みき』の解説
『鶴は病みき』を含めて岡本文学の根本主題は「運命と救済」である。本作では、麻川(芥川龍之介)の自殺を止めらず変えられなかった葉子(岡本かの子)の嘆かわしい悔恨が描かれている。
人間世界のあらゆるいとなみは実りない不毛なたわむれだろうか?
病んではかない運命とは何か?
「この鶴も、病んではかない運命の岸を辿るか。」
こんな感傷に葉子は引き入れられて悄然とした。
「病んではかない運命」とは、あるものが何らかの理由で人生に絶望する、それは不可避であり、それに抗うことは不可能である、人智を越えて定められたなにかを示している。
ふつう「病んではかない運命」に対して、われわれは諦念感を抱いて挫折するところを、かの名匠の一生は、救済をまちこれに耐え忍んだ。
葉子の感傷は笑い去れるか?
いったい岡本かの子は以下の文をどうして導入したのだろう。
……生前の氏の運命の左右に幾分か役立ち、あるいは氏の生死の時期や方向にも何等かの異動や変化が無かったかも期し難いと氏の死後八九年経た今でもなお深く悔い惜しみ嘆く……
これを葉子という一女性の徒らなる感傷の言葉とのみ読む人々よ、あながちに笑い去り給うな。
確かにいえることは、これは葉子という一女性の徒らなる感傷の言葉とのみ読むほかはない。
なぜそういえるのかは、葉子が何するにせよ、あるいは何しないにせよ、麻川の運命は決定されており、それに関われば運命は左右されたと夢想するのは感傷のほかにないからである。
これは岡本文学のいわば宗教めいた手引の常套手段である。
あるいは、人智を超える存在や法則めいたなにかが岡本には授けられていたのであろうか……
ひっきょうするに、あらゆる私の解釈というのは私の世界のみに普遍に妥当するのであって、もしかすると私の解釈が普遍に妥当しない世界が存在しているのである。ちょうどそれは私たちに神秘を象徴する鶴の世界の法則をまったき知るすべがないように。
このようなわけで本作『鶴は病みき』は、今後の岡本文学の方向とその道程とを物語る小説であるといえるだろう。
令和二年 六月
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