今日では私たちは様々な対象に「かわいい」という判断を下している。「かわいい」の対象は実に様々であり、桜やチューリップなどの植物でもあれば、犬や猫などの動物でもあり、動物でもある幼児や老人などの人間、さらには生命の宿らない工芸品にまで「かわいい」と判断を下している。一体なにが「かわいい」のだろうか?
そもそも「かわいい」という感情はどこから生じて来るのだろうか?
もちろんのこと、ある感情を余すところなくして広範かつ根底から説明することはできない。しかし、ある感情の生じて来る一般の性質を説明することはできる。そのような一般の性質をもって自らの感情を一人一人が説明することは可能であり、他者によりしばし煩わされる「どうしてそれが『かわいい』のか?」という疑問を解消することができるだろう。
本記事が読者に語りかけることは、様々な対象に「かわいい」という判断を下す前に、きわめて曖昧な「かわいい」の意味を点検し、明確な判断材料をもって、今一度、「かわいい」の判断を対象に下されたい、ということである。
序章|本記事の目的について
今日的かわいいの判断方法は「かわいい」を志向する全人の指標として、さらには現代の女性活躍社会において女性のかわいいの意義を問い直す材料として意義をもつ。また「かわいい」という形容詞は、文学や芸術の解釈に適用可能であるため、これらへの新しい見方を拡張するために意義をもつ。
かわいいを今日的と形容するわけは、言葉の意味というものが、ある時代・ある社会によって変容するからである。本記事は今日的かわいいの意味を、時代や社会から分析し、この意味の成立過程を説明する。
第一章|かわいいの判断方法|かわいいは「快適性」と「親和性」と「支配可能性」との三部門の性質から導来される。
ある対象から獲得される三つの性質の総合判断にしたがって、私たちは対象を「かわいい」と肯定したり「かわいくないと」否定したりする。
その三つの性質とは「快適性」と「親和性」と「支配可能性」とである。それぞれの性質を端的に説明すると、以下のとおりである。
快適とは、対象が私にとって快いこと。対象から感覚的満足が得られることである。
親和とは、対象が私にとって馴染みがあること。対象を抵抗なく(対象から恐怖や苦痛を感受せずに)受容できること。
支配可能性とは、自らの能力範囲に対象を包括すること、占有することであり、対象を占有することが潜在的に(理論的に)あるいは現実的に(実践的に)可能であるかどうかを示す。
※対象は絶対的な客観性をもたない。主観と対象は結びつき、対象は絶対的ではなく関係者間において相対的に規定される。それゆえ絶対的な(誰もが認める)「かわいい」の指標は存在しない。
かわいいの判断方法【一】|快適性について
快適とは、対象が私にとって快いこと。対象から感覚的満足を得られることである。
快適な対象は「触覚(たとえば肌触り(質感))」から獲得できるもののみならず、「視覚(たとえば色)」や「聴覚(たとえば声)」など五感すべてから獲得できる。
また過去の経験からある対象が快いことを知っており、対象の性質から類推判断し、対象を快いと見做すことも快適に含まれる。たとえば、ふわふわのふとんの触感が快であることを過去の経験から心得ており、そのふとんに相似する対象から快を導来することなど。やわらかで丸みを帯びた対象を見るときは、何らかの過去の経験を想起して、それを快適なものと類推する。それだから私たちはやわらかで丸みを帯びたものを快適だと思うのである。
不快な感覚は「かわいい」の判断を否定する
ある対象が不快というのは、その対象が「苦痛」や「恐怖」や「嘔吐」をもよおすものであることを示す。「かわいい」の判断は「快適性」と「親和性」と「支配可能性」との総合得点により下されるため、たとえその対象から「快適性」が欠けても、残りの二つの性質の「親和性」と「支配可能性」との評価により対象に「かわいい」と判断を下すことは可能ではある。しかし「かわいい」の判断方法の三つの性質のうちで最も評価の高い性質は「快適性」である。そのため「快適性」の欠けた対象に「かわいい」と判断を下すことはまれである。
恐怖という不快を超える感覚
対象から恐怖を覚える時には、その対象に(絶対に)「かわいい」と判断を下すことはできない。
「恐怖でかわいい」「いじらしいが畏怖の念を覚える」などは撞着語法である。恐怖の対象というのは支配不可能であるため「かわいい」の評価をそこなう。
たとえば(少々強引な例だけれども)私たちは女神に「かわいい」と判断を下すことはできない。なぜなら「神」という存在から私たちは「畏怖の念(一種の恐怖)」を覚えるからである。そのため、たとえ女神に「快適性」と「親和性」とが完備されていても、女神から恐怖の感情を覚えるために「かわいい」と判断を下すことはできないのである。
また恐怖の対象からは「親和性」を得ることはない。なぜならほとんどの恐怖というのは「未知」を含んでいるからである。私たちは「未知」に、つまり馴染みのない「新しいこと」に抵抗せざるを得ない。「未知」という恐怖を拭えるものは「好奇心」であり、私たちは「好奇心」によって「未知」という恐怖を「親和」や「支配」へと転換することができる。
聴覚による快適性の判断
私たちはある音域の高い音(声)に「快適性」を見出す。それだから鳥声は快く、また男性は女性の高い声から快の感覚を獲得する。おそらくより詳しく言うなら、鳥声を聴くと古来からの遺伝情報により「安心・安全」(快適性)を獲得するのであろう。
(女性は男性の低い声から快の感覚を獲得する。これは男性の低い声を聞くと、女性は安心感を抱くからである。)
ところで、すでにある幼女に「かわいい」と判断を下している場合において、その後に幼女が中年男性の発する低音域の声を発したらどうなるか。再び私たちは同じ幼女に「かわいい」と判断を下せるだろうか。おそらく私たちは幼女から一種の恐怖を、不快な感覚を受けるため、幼女に対して「かわいい」と判断を下せなくなるはずである。
なぜ幼女は「かわいい」のか?|「かわいい」の適用例
以上の写真の幼女に対してかわいいかどうかの判断を下す、その高速で処理される過程をゆっくりと言語によって記したい。
まず「快適性」による判断では、幼女のまるく光る瞳と、汚れのない整然とした平均的な顔とが私に快適である。また幼女の髪や肌の質感も快適である。つぎに「親和性」による判断である。幼女からは「苦痛」や「恐怖」を抱くことはない。かつ平均的な顔(均整美)であり違和感(嫌悪感)を抱かないため、親しみの感情(親和性)を獲得する。
もしも幼女の下半身が獣じみていて体毛が跋扈しているなら(人間の概念が変わるような体であれば)、幼女から「親和性」と「快適性」とは感受できなくなる。幼女の体に毛が跋扈していることは、一般的ではなく(類型がなく)、親しみがなく、ある種の恐れ(未知の恐怖)を抱かしめるからである。また、もし幼女の肌の色が黄色であるなら、これも同様に、その肌の色に馴染みのない私たちは幼女から「親和性」を得られない。だから日本人は黒人から親和性を得がたく、黒人は北欧人から親和性を得がたい。親和性を得がたいわけは、肌の色が異なるのみならず、異なる言葉、異なる文化、異なるという未知が関与している。そして最後に「支配可能性」による判断である。この幼女を容易に支配できるという仮想的判断(理論的判断)から、幼女の「かわいさ」の評価は上がる。
以上の「快適性」と「親和性」と「支配可能性」との三つの総合判断から、私たちは幼女に「かわいい」と判断を下すことになるのである。
吹出物は不快の感覚をもよおす
ところで先の幼女の面いっぱいに吹出物をつけると、たちまち不快の感覚がもよおされる。そして「かわいい」の判断は撤回されることになるであろう。私たちは吹出物をみるや血や汚物を連想し、嫌悪感(不快感)を覚えてしまう。
再現による喜び|コスプレが快適な理由
再現(模倣)することは、子どものころから人間にそなわった自然な傾向である。しかも人間は、もっとも再現を好み再現によって最初にものを学ぶという点で他の動物と異なる。……このことは経験によって証明される。……人間の死体の形状のように、その実物を見るのは苦痛であっても、それらを極めて正確に描いた絵であれば、これを見るのを喜ぶのである。
アリストテレス『詩学』
コスプレを身につけると快適な感情を得ることができる。これは「再現の喜び」である。いいかえるなら、模倣の対象(アニメの登場人物)を再現して、さらにその対象と自己とを合一させることが、コスプレイヤーには快適なのである。
コスプレイヤーは、再現の喜びのほかに、視覚や触覚による「快適性」と、そのコスプレにどれだけ馴染みがあるのかの「親和性」によって、あるコスプレに「かわいい」と判断を下している。
ところで、同じコスプレでも「SM」の行為で使う衣装は、目が眩むほど煌びやかな色合いであり、さらに角ばっているため快適ではなく、「かわいい」と判断を下すことはない。そういう衣装には「いやらしい」や「みだらな」という形容が正しいだろう。
※かわいい人になるための方法を探し求めている人へ
少しだけ話は横道に逸れる。「かわいい」を志向する女性へ、かわいい人になるための方法を5つ記すことにしたい。
①肌荒れをなくした素朴な顔であること
②多くの男たちがもつ女性の概念に適った女性であること(髪がなめらかで長いこと、マネキン人形が着ている服を着ること、など)
③女性らしい小物をもつこと(花柄のハンカチ、薄紅色あるいはパステルカラーのカバン、など)
④痩せすぎず太すぎずの体型であること
⑤小さすぎず大きすぎずの目であること
この五つの方法は、本記事の内容と一貫して通じている。つまり、【一】平均的な顔と体型とは「快適性」を与えて、【二】広く浸透する女性という概念に適った女性は「親和性」を与えて、【三】上記の一と二とは平凡な女性であるため男性に「支配可能性」を与える。
なお、花や子どもに対する「かわいい」とはことなり、男性が女性に「かわいい」と判断を下すときには性的欲望(快適性の一種)が必ず結びつく。だから女性の「かわいい」と男性の「かわいい」の判断は異なることになる。女性は女性らしさという平凡を追求することに加えて、女性の性的魅力を養うことによって「かわいさ」を手に入れることができる。
かわいいの判断方法【二】|親和性について
親和とは、対象があるものにとって馴染みがあること。対象を抵抗なく(対象から恐怖や苦痛を感受せずに)受容できること。全体のうちの部分が規則正しく配置されている均整美は「快適性」でもあり「親和性」にも含まれる。
「かわいい」の判断を下すための三つの性質のうち「親和性」は、「快適性」や「支配可能性」に比べれば「かわいい」の判断に与える影響は少ないといえる。しかし「親和性」は、「快適性」と「支配可能性」とに密接に結びつくため、対象に「かわいい」の判断を下すときに間接的に多大なる影響を与える。
ポケモンのピカチュウは「かわいい」のか?
ポケモン世代といわれる人たちにとってポケモンのピカチュウはかわいいはずである。しかし、ポケモンを見知らぬ大人がはじめて映像上のピカチュウをみてかわいいと判断できるかどうかは疑わしい。
ピカチュウは体格が小さく、その動きを容易に把握できる。そのため私たちはピカチュウから支配可能性を獲得できる。しかしピカチュウをはじめて見る大人には、ピカチュウの二頭身は過去の経験を探しても例がなく、一般的ではなく類型が見つからず、ピカチュウから「親和性」を得ることはできない。さらにピカチュウの頬には赤い斑点が付されており、しっぽは歪曲しているため、この未確認生物からは余計に親和性を得られないのである。そして親和性を得られないために、ピカチュウが地球外生命体ではないのかと推断され、ある者はある種の恐怖つまり未知の恐怖を受けるのである。
先に記したとおり恐怖の感情が加わると、いかなるものに対しても途端に「かわいい」と判断を下すことは不可能となる。
幼少期による「親和性」の拡張
幼少期は、判断力が確固として確立されておらず、しかも優れた好奇心をもつため、どの対象にも抵抗なく接触できる時期である。(つまり幼少期とは恐いもの知らずの時期である)
ポケモンのピカチュウは実は奇異奇怪な存在であったにちがいない。(今人には類推によって大人でもピカチュウをかわいいと判断を下せる)しかし子どもであれば、ピカチュウに対して興味をもち接近して、ピカチュウを身近な存在に感じて、そしてピカチュウが恐怖の対象ではないと知ることができる。そしてつぎには、すぐにピカチュウに対して支配可能性を察知する。そして今後ピカチュウに「かわいい」と判断を下すことになるのである。
現代アートと親和性について
私たちが現代アートに容易に馴染めない理由は、以上の訳合による。つまり、芸術は創造的技術であるため、その言うに言われぬ概念に容易に馴染むことができず、そこから親和性を見出せないのである。哲学史や美術史に新たな思想や技法が記されたびに、私たちは哲学や美術(芸術)から「親和性」を見失うのである。
またもっぱら知性によるアートは、よっぽど芸術に関心がなければ、その芸術作品から「快適性」を得ることはできない。だから芸術作品が「かわいい」の判断を受けることは稀である。
その稀な例というのは創作過程の功績を重視する作品に対してであり、私の知るところによれば円山応挙氏の(あるいは氏を楚とする技法の)風俗画が稀な例にあたる。
かわいいの判断方法【三】|支配可能性について
支配とは、自らの勢力範囲に対象を包括する、あるいは占有することである。支配下においては対象からは不如意を覚えない。ある対象が、自らの能力範囲に包括されると、支配欲を満たし、快の感覚を獲得することができる。
また、ある対象が潜在的に(仮想的あるいは理論的に)包括可能であると判断すれば、私たちは支配欲から快の感覚を獲得できる。つまり、いつでも対象を支配できるという権力が(優越感が)ある程度、支配欲を満たすのである。
対象を支配する手段とは、知性でもあれば、純粋な力でもあり、体格であることもある。そのなかから私たちは都合よく(合理的に)おのおのの得意とする能力を引き合いに出して、支配可能であるのかどうか対象と比べる。支配というのは対象を消滅させる類の力に結びついている。つまり自らの能力をもって、対象を消滅させられるか、その可能性を計測し、計測結果が消滅可能(支配可能)であれば、支配欲が満たされるのである。
視覚による重量判断について|髪色は黒は美しく、茶はかわいい
「かわいい」の判断方法のいい例を発見したので紹介したい。岸田劉生の絵である。画家である岸田劉生は、彼の娘である麗子の絵を何枚も描いている。ひょこりと座る麗子の絵もあれば、ひょいと立つ麗子の絵もある。麗子に今日的かわいいの判断を下せば、麗子は「かわいくない」という否定の判断が下されるだろう。よく似た麗子の絵でも比較的に「かわいい麗子」と「かわいくない麗子」とがある。両者の判断を左右するところは、恐怖の感情による影響も大きいが、麗子の「髪色」や「重量(質感)」も判断をじゅうぶんに左右する。
周知のとおり、私たちに重い印象を抱かしめるのは黒色であり、反対に、もっとも軽い印象を抱かしめるのは白色である。漆黒の前髪の麗子と、白茶色の前髪の麗子とでは、かわいいの判断は後者の麗子に下される。もちろん髪色のみならず衣服の色による重量感もかわいいの判断に影響している。
つまり、女性がかわいいを目指すならば、軽量感を抱かしめる髪色と衣服とをまとうこと、美しいを目指すならば、重量感を抱かしめる髪色と衣服とをまとうことが重要である。
岸田劉生について蛇足
岸田劉生が天才画家と称されるに値するのは「デロリ」の巧みな表現技術に依拠するのではないかと思う。「デロリ」の表現が尽くされる作品は《童女舞姿》であり、この麗子に対しては今日的かわいいの判断を下すことは不可能であるが、しかし魅力を生ぜしめる神秘が隠されている。
かわいいは時代や社会による変動の被り易い概念であるが、「デロリ」のようなどことも知れない魅力は容易に変わる概念ではなく、それは一定不変の原理を帯びた、歳を重ねても変わらない普遍的な魅力なのである。
「かわいい」と「笑顔」の関係
私たちは経験から「笑顔」と「恐怖」とが互いに結びつかないことを知っている。あるものが笑みを浮かべると、恐怖(あるいは敵愾心)が除かれたと私たちは錯覚する。次に私たちに笑顔をふりまく対象(親類や友人)から「親和性」を獲得する。たとえば、ある美しい人が笑みを浮かべれば「美しい人」は「かわいい人」へと変わるものである。そして「美しい人」が笑みを浮かべて尚も「美しい人」であるならば、そのような人は「無敵の美人」と表現されてよいであろう。なぜなら「恐怖」をことごとく取り去る「笑顔」をもってしても尚も恐怖を抱かしめるからであり、つまり「無敵の美人」は判断者に親和性を与えず支配可能であることを絶対に許さないのである。
かわいげのあること(いじらしい)|少年と暴走族との走る行為
少年が走りまわれば、閑静な街は賑々しくなり、どこか微笑ましく快適である。しかしながら暴走族が走りまわれば、閑静な街は喧しくなる。しごく迷惑であり不快である。しかも暴走族は住民には手に負えず、恐怖であり、支配不可能である。この支配不可能という不如意が不快な感覚を喚起するのである。それゆえ、暴走族から私たちは「支配可能性」も「快適性」をも獲得できない。したがって少年と同様の行為であれども、少年には「かわいい」と判断を下せるが、暴走族には「かわいい」と判断を下せないのである。
「かわいい」の判断根拠には(絶対に)恐怖の感情は混入しない
恐怖とは、私たちが力を尽くして抵抗しても匹敵しないことが判るときに生じる感情である。
これは「支配可能性」と同様に現実的な(実践的)判断のみならず、潜在的な(仮想的あるいは理論的な)判断をも無意識のうちに下している。恐怖の感情が混入すれば、ただちに「快適性」や「親和性」や「支配可能性」はすべて消滅する。それゆえ恐怖の感情を抱かしめる対象にかわいい判断を下せないのである。
かわいいライオンと恐怖のライオン
自然界最強の猛獣と称されるライオンを「かわいい」と思えなくなるときは一体どの瞬間からか。ライオンの寝顔は「かわいい」と言える。目を開けた歩行の姿も「かわいい」と言える。しかし、ライオンが憤怒の様相を呈し、尖鋭な牙を見せたとき、そのとき、その瞬間、その間に迫った瞬間に、そのライオンに私たちは「かわいい」と判断を下せるだろうか?
おそらくムツゴロウさんでも無理ではあろうが、彼のような人であれば「かわいい」と判断を下すことができる。なぜならムツゴロウさんのような人であれば、尖鋭な牙を見せた憤怒のライオンからも「親和性」を見出せるからである。その間に迫った瞬間においても死を避ける方法を熟知しているため、憤怒のライオンに対して恐怖の感情を抱くことはないのである。
つまり憤怒のライオンから(対象から)恐怖の感情を抱かない十分な根拠をもちあわせているのならば、ライオンに(対象に)「かわいい」と判断を下すことは可能である。
ミニチュアが「かわいい」理由は、容易に支配可能であるから
私たちがミニチュア(のもの)に対して「かわいい」と判断を下すことは、私たちが到底力を尽くさずともミニチュアを支配できると判っているからである。
ところでだれかに「かわいい」と言われたら、その発言に憤って然るべきである。なぜなら相手は自分を支配可能であると判断しているからである。
かわいいの判断方法の大前提|安心・安全なくして「かわいい」は成立し得ない。
少年少女、小動物が走りまわるように「小さな動き」に「かわいい」と判断を下せるのは、対象が私たちにとって把握可能であり支配可能であることを類推させるからである。見上げるほど背の高いキリンは、なるほどキリンが私たちから隔離されており、私たちの安全が確保されているならば「かわいい」と判断を下せる。しかしながら、南アフリカの大地で野生のキリンと目の前で遭遇したときに、そのキリンを「かわいい」と判断することは可能だろうか。わたしの素朴な感情であれば、キリンを少し恐怖の感情を抱きながら「立派である」と思うのみである。今日的なかわいいの感情は喚起されない。先のライオンと同様である。
ちなみに私は動物園にキリンがいても「かわいい」と判断を下すことはできない。それはおそらくキリンの斑点模様から生命のまがまがしいある悲痛な叫声を、なにか大地のひびわれのような不快の感情を感受するからであろう。
まとめると、南アフリカの大地でキリンと遭遇した私たちは安心安全な立場にはないために、キリンから「快適性」と「支配可能性」とを獲得できず「かわいい」と判断を下せないのである。
ひらがなを「かわいい」と判断する理由
私たちは経験的に対象が角ばっているもの(刺や刃物など)から痛みを連想する。翻って対象が丸味のあるもの(コップやボールなど)から快さを連想する。「ひらがな」は「漢字」や「カタカナ」よりも文字に丸味がある。それゆえ「ひらがな」は快の感覚を喚起して「快適性」を与える。またそれぞれの先入観として「“漢字” は “勉強(苦痛)” 」や「“ひらがな” は “幼児の言葉(嘲笑)” 」という無意識的な観念を私たちはもっており、前者は不快を、後者は快をそれぞれ喚起するものである。それゆえ私たちは「ひらがな」に「かわいい」と判断を下す傾向にある。
【一】「バカヤロウ」
【二】「ばかやろう」
【三】「馬鹿野郎」
【一】「キライ」
【二】「きらい」
【三】「嫌い」
上記の悪罵を浴びせられても精神的苦痛が少ないのは各[二]であろう。
第二章|かわいいと愛する
対象に「かわいい」と判断を下すことは人間だけではなく、猫や犬などの動物、桜やチューリップなどの植物、ミニチュアやアニメなどの工芸品にも可能である。しかし対象に「愛の判断」を下すことは人間に限定される。なぜなら「かわいい」が「愛」に転ずるには、互いの身体の関係性が前提されるからである。花を愛することが不可能であるのは、花のもつ超越的なもの(関係性を前提にするもの)が、私たちには認識不可能であり、関係を規定することが不可能だからである。つまり人間と花とは言語が別次元に区分されており、人間は人間の言語のうちで、花はまた花の言語のうちで、それぞれ意思疎通が可能となり、互いの言語を往来することは不可能なのである。これが超越的なものである。
※余談だが、猫が理性を所有していないという証明は人間の言語によってのみ証明可能であり、自然の言語では不可能である。私の思うところによれば、人間こそが理性を持たないのであり、自然界から最も遅れている理性的存在者なのである。
つまり「かわいい」は一方向から「快適性」と「親和性」と「支配可能性」とを判断され、「愛」は双方向から、関係性を絶対に前提した上で、三つの性質を共有しており、その共有の度合いによって愛は判断される。だから見知らぬ女性に「愛」を告げることは狂人の行為であり、当然ながら相手からその「愛」は否定されることになる。
両者の関係性が前提された瞬間から「殺意」が芽生える
「かわいい」の判断材料である「支配可能性」は、両者の関係性が前提せられれば「行為化」される。「行為化」とは、すなわち対象に支配を適用する試みである。私たちの支配欲というのは、支配空間にある空白を許さず、なにがなんでも空白を真黒に塗り潰さなければ我慢ならない。つまり支配欲は不如意を絶対に許さずに、努めて如意を実現しようとする。
「死ぬほど愛している」というのは愛の究極のせりふである。なぜなら対象の支配が完了して、はじめて愛は頂点に達するのであり、そして対象は消滅するからである。つまり対象の支配が完了しなければ、支配欲は満足されず「支配可能性」は僅かに失われ、したがって不如意となり不快の感情が喚起され「快適性」をも失われ、究極の愛の実現は不可能となるのである。
「死ぬほど愛している」というせりふは、言い換えると「(君が)死ぬほど(私は)愛している」の意であり、その死の主体は「私」ではなく、死の主体は「君」なのである。つまりこういうことである。対象を支配できなければ「支配可能性」と「快適性」は僅かに失われる。そのため、究極の愛を実現できない。究極の愛というのは、対象の死をもって、はじめて成立するものなのである。だから愛というのは結局のところ虚しいもので、不満足に終わるのである。
かわいいとマゾヒズム|マゾヒズムとは最高の愛の表現方法である
人間は欲望において器用である。ある欲望を抑制してまた別の欲望に転化することができるからだ。だから私たちは支配欲を抑制して、完全たる支配に結びつかない自虐的性欲に転化させ、愛から対象を消滅させる性質を剥奪できる。これは端的に「マゾヒズム」とよばれる。「マゾヒズム」という方法によって、愛のある性質に倒錯が生じて、対象は救済されることになるのである。
以下はマゾヒズムの代表的小説である『痴人の愛』の主人公ジョージの発言である。
「僕の可愛いナオミちゃん、僕はお前を愛しているばかりじゃない、ほんとうを云えばお前を崇拝しているのだよ。」
このときジョージは32歳の会社員であり、ナオミは19歳の小娘である。拡大解釈をすれば、マゾヒズムというのはナオミを際限なく愛するためのジョージの唯一の方法だったのではないか。
小説における愛の試み。文学を「かわいい」から解釈する
昭和と平成の人気小説家、三島由紀夫氏は『春の雪』、村上春樹氏は『ノルウェイの森』において、《なぜなら(清顕・直子)は、(聡子・渡辺)を愛していなかったから》という一文をそれぞれの小説のなかで読むことができる。
この一文が示唆するところは、対象を愛するあまり、その愛情が昂じて、対象を消滅させないように清顕や直子の愛から支配の性質を剪除することである。なぜなら対象を愛することとは、際限のない支配欲が浸潤して来ることを意味しているから。
だから愛が昂じないように、清顕、キズキ、直子それぞれは自殺したのではないか。この解釈は(自然から遊離した)個人主義時代における自我を破壊する行為化よりも根底にある何かを示している。
ところで『春の雪』や『ノルウェイの森』とは異なる逆説的な小説は『眠れる美女』(著・川端康成)である。江口老人が眠れる美女とともに夜をたのしむ小説である。江口老人の存在が相手に(眠れる美女に)通じない絶対の拒絶。それゆえに関係性が絶対に前提されない。だから『眠れる美女』の世界には悪のある愛はないのである。
「かわいい」と「愛」との狭間である「萌」
「かわいい」の判断は、ときに熱狂にまで昂じる。これは僅かながらーーあたかもファンのように“ファン”として抽象的に概念的に一絡げにではあるがーー対象との関係性が前提されるため「愛」の手前にある「萌」に到達する。
川端康成氏はアイドルに傾倒していたそうで、なぜアイドルに傾倒していたのかは「愛」の関係性を僅かに得られる「萌」の領域で対象を消滅させずに済んだからであろう。
*ここで「消滅」とは、対象の現実的存在を消すような行為ではなくて、対象の性質を消滅させるようなことを意味している。一方の支配が他方に侵攻すれば、侵攻される他方の態度が変化して、これにより他方の性質に変化が生じるため、相互の初期の関係が破棄される。
第三章|「かわいい」と「女性活躍社会」と
かわいいの性質に傾倒する女性の男性への媚態は、女性自らの立場を退化することにつながる。なぜなら女性の「かわいい」とは支配可能性を男性へ与えるからである。それゆえ「支配・被支配」の関係が成立して女性は常に男性に従属するのである。
だから女性活躍社会を推進する女性は「かわいい」を求めることは慎まなければならない。常に女性は優美にあるいは豪華に振る舞わねばならない。
また既存の“女性らしさ”をことごとく撤廃して「親和性」を与えることも慎むべきである。常に急進歩的な女性こそが「親和性」を排することが可能であり、また男性の支配を許さずに、女性活躍社会へと出陣できるのである。
今日的かわいいの起源|かわいいを求める女性の男性への媚態の経緯
どうして女性はこれほどまでに「かわいい」を追い求める媚態に至ったのか。それはグローバル化に伴う「日本人女性の生存戦略」並びに「今日の個人主義」に由来するであろう。
およそ国境の取り払われた今日の世界においては、日本人女性は諸外国人女性に美しさにおいて等匹できず、新しい魅力を開発せざるを得なかった。その新しい魅力というのは「かわいい」である。諸外国人女性の美貌と比べて日本人女性の優位にある「快適性」と「親和性」と「支配可能性」とを与えれば、男性は、諸外国人女性から目を離して日本人女性に目を向ける。
おぎゃーと生まれたときから個人主義の(個人崇拝の)世界に住んでいる私たちには自己を中心とした舞台が設えられ、恣に欲望を満たし満たされ育てられて来た。今日の個人崇拝は、自己は中心であり他者は周辺という自己中心主義的な見方を敷衍している。それゆえ他者に対する畏敬の念が失われーー無意図的な文化大革命のようだがーー自己が崇められ、かえって他人に対する蔑みの感情がふつふつと湧いてきた。
だから男性であれば抑圧されていた欲望が噴出し、とかく自由という人権を盾にして、誰にでも支配を行使する。女性であれば他者を凌ぐ生存戦略を練りに練って「かわいい」を求め、男性への媚態を支配の行使を容認する。
したがって「かわいい」を求める女性の、男性への媚態というのは、今日の時代情勢に鑑みて、種の保存の本能のための(生存戦略のための)自然の成行であったのである。
女性活躍社会の問題点は、女性が生存に不利になること
女性活躍社会において、女性は美しくなければならない。だが日本の女性が美しさを目指すならば、西洋の女性と競い合うことになる。当然ながら等匹できまい。既存の美を変えるような、岸田劉生のデロリのような魅力を備えることが「女性活躍社会」と「日本人女性の生存戦略」との和解である。
もちろん女性は、人間が備える種の保存の本能に従って、かわいいの性質に傾倒する媚態を演じ、選ばれる対象として生きることも選択できる。しかしそのような本能への自然の選択こそが余計に女性の立場を退化させるのである。
今後の「かわいい」の成行について
女性活躍社会の真の実現のためには女性は「既存の女性像」を破壊する必要に駆られている。今日的な「かわいい」の性質上、女性は「支配可能性」を男性に与える。それゆえ上下の従属関係が規定せられる。女性が表舞台で活躍する社会では、どうしても「かわいい」を放棄しなければならず、却って「美しい」態度を身につけなければならない。
おそらく今後は「かわいい」は廃れて「美しい」が台頭する。女性が表舞台で活躍する社会においては端的に「かわいい」は邪魔な存在となる。それゆえ「かわいい」は「嫉妬の対象」というよりは「嘲笑の対象」と判断されるかもしれない。
「かわいい」とは異なり「美しい」は支配を許さない。神や皇女に「かわいい」という判断を下せないが「美しい」という判断なら下せる。何度も言うが女性が表舞台で活躍するには「かわいい」を排して「美しい」を身につけなければならない。
終章|かわいいは日本文化の一体系をなしているのか?
本記事を書くに至った理由は、大阪の街(心斎橋付近)を歩いている途中に私の後ろで見知らぬ外国人たちが日本文化について話していたところから来ている。
かれらは日本文化には何があるか、と話しながら歩いており、まず「お茶」や「尺八」を挙げて、それから「かわいい」も日本文化に加えていた。そこで私は日本文化のひとつに「かわいい」が数えられることに瞠目したのである。
「『かわいい』は日本文化ではないだろう。なぜなら英語圏には『Cute』の概念があり、中国語には『可愛』がある。『かわいい』の概念は日本以外のどこの世界にも存在するだろう。」
かれらの意味する「かわいい」とは日本の技術と結びついたところにある「かわいい物事」のことである。かわいい物事とは、たとえばコスプレ、アニメ、ミニチュアのお土産、かわいい柄の品物、「かわいい」の性質を加えた「もの」と「こと」とであった。
なるほど「かわいい」は日本文化として定着しはじめてはいる。しかしかわいいというのは不安定で確固とした基盤をもっていないのが現状である。コスプレやアニメなどに一括して「かわいい」の名称が付されるだけである。「かわいい」の本質を見失えば日本文化として定着せずに漂流をはじめ一過性のブームに終るだろう。
結び
かわいいという意味は、枕草子の「いとおしい」に始まり、今日の「かわいい」に継承せられている。次に私たちが継ぐべき「いとおしい」や「かわいい」に共通の性質である「庇護心」は一体なんであろうか。世界の潮流を鑑みれば「小さきもの」から「大きなもの」へ「庇護心」は拡がるのではないか。それは正しく博愛の精神の芽生えであり、私たちの関心を遥かに広大な自然に向けられることを示唆するであろう。
本記事の今日的かわいいの判断方法が、「かわいい」を日本文化の一端とする役割を担えるならば、筆者にとってはうれしい。
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