1937年にアメリカで出版された『はつかねずみと人間たち』(原題:Of Mice and Men)はジョン・スタインベック(1902-1968)による悲劇的短編小説である。失業者であふれる世界恐慌を背景にカリフォルニア州サリーナス地方のソルダードを舞台として二人の移動労働者の奇妙な友情が描かれる。
ジョン・スタインベック|『はつかねずみと人間たち』の要約
洞察力に富んだ奇妙な小男ジョージは、無邪気でうすのろな力もちの大男レニーを連れて北のヴィードから南のサリーナスの牧場へと向かう。移動労働者のジョージとレニー、二人の夢は、広大な敷地の牧場を手に入れること、花畑のある牧場のなかで犬やウサギや鳩を放し飼い、ともに暮らすことである。
「はつかねずみ」をなでるのも厭わない大男のレニーは思慮分別がじゅうぶんに働かず、それがために小男のジョージの指示には従順にしたがう。ジョージは、北のヴィードでレニーが引き起こした問題をくり返させないために、新しいサリーナスの牧場では口を閉じることをレニーに命じる。それがしてサリーナスの牧場の労働者たちを奇妙に思わせ、何も話そうとしないレニーは牧場主やその息子のカーリーらから警戒される。
ジョージが牧場を離れている間、レニーのもとにカーリーの女房がやってくる。ジョージ以外のものとは口をきかないレニーだが、カーリーの女房には口を開く。カーリーの女房とは何か相通ずるものがあり、彼女のすてきな髪をなでる機会に恵まれたレニーは、髪をなでることに夢中になり、終いにはカーリーの女房の首の骨を折ってしまう。
あと一歩のところで実現できた二人の夢は途絶え、危険を回避するために「藪のなかに隠れている」レニーのもとにジョージが登場する。そして長らくの連れと訣別することになる。
ジョン・スタインベック|『はつかねずみと人間たち』の感想
思慮分別がじゅうぶんに働かないものにとって「はつかねずみ」はかわいい動物である。
もしも〈汚れて〉おらず〈危険〉ではない「はつかねずみ」が存在するならば、その顔、体躯、毛感触、それらすべては私たちの快感情を刺激する。
大男のトニーは現在只今に現前して単純に目に見えるもの安心できるものだけを捉えるため、ウサギには劣るが「はつかねずみ」はトニーにとってかわいい快い動物であるのだ。
小男のジョージが大男のトニーを連れる理由
ジョージは、はっとしてレニーを探るようにながめた。「おれはいじわるだったかな、どうだい」
「だめだぞ、いいか! おれはただからかってただけなんだよ、レニー。もちろんいっしょにいてもらいたいんだよ。いつもはつかねずみを殺しちまうってのは困りもんだがな」
本作『はつかねずみと人間たち』は1930年代の失業者を多数続出せしめた生活の安定しない世界恐慌を背景としている。
かような背景もあり、小男のジョージは、じぶんに従順にしたがう思慮分別のじゅうぶんに働かないレニーを連れることに安心を得る。だれもが安心できず、他人を利用することを考える世界では、ジョージにとってレニーは安心のできる用心棒であったのだろう。
ところでケチャップをかけた豆が好きというのは何か野蛮めいた告白ではないだろうか。
孤独が人間を死の淵に追いやる
ジョージがレニーを連れる理由は、孤独を避けるためでもある。
牧場の労働者のひとりであるクルックスがレニーに対して孤独について語る。
「人間にゃ相棒が必要なんだ――そばにいてくれるな……人間ちゅうのはな、仲間なしじゃ変になっちまうだ。いっしょにいてくれさえすりゃだれだってかまわねえだ。ほんとうなんだ……いいですかね、人間ちゅうのはな、あんまり淋しいちゅうと病気になっちまうだ」
孤独は、それも長らくの孤独は、まず間違いなく根底から人を変える。精神は蝕まれ不安定となり、自己や他人に対する感情は倒錯し、孤立無援の世界で一生を過ごす圧力に押しつぶされる。つぎには人によっては自決の選択肢が一等マシであると考え込む。そうして死の淵に立たされた人は死の姿を知って、代替として死力を手に入れる。
死力とは、あらゆる行為、あらゆる現象を赦すことのできる〈精神力〉といいかえてもいい。
「いいや」とジョージが答えた。「いいや、レニー。おれはおこっちゃいねえよ。これまでもな、腹をたてたことなんかいちどもねえし、今だってそうだぜ。そいつをひとつ忘れねえでもらいてえな」
どうしてカーリーの女房とレニーは会話できたのか?ジョージの命法を破って。
レニーは思慮分別がじゅうぶんに働いておらず、みずからの快感情に忠実である。すなおではあるがそこが恐ろしいところである。目に見える快を思うがままに堪能し所有せんとする。レニーの女房は魅力的な女であり、しかもレニーと相通ずるものがある。つまるところレニーはカーリーの女房に安心(快)を見出したのだ。終いには女房をあやめて所有してしまう……
理性による抑制が失われた世界は残酷である。しかしその底にはもっと残酷な世界が、もしくは救済の世界があるのかもしれないのだが。
令和二年 六月
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