先日、長野県の唐松岳に山登りに行った。何のための山登りであったのかは明らかでないけれども、何か求めるものがあったから山登りしたのである。
晴れやかな曇り空の下、ゴンドラとリフトを乗り継いで徐々に山頂に近づいてゆく。冷たい雲霧に凍えながら高く昇る、そして地上を離れるに連れて感じるのは天空の温もりであった。
登山路の入口、山荘に着いたときには雲霧はもくもくと私の視界を隠すほどであった。台風の影響もあるのか山登りする人の影はない。しかしこの日を逃せば登れないだろうと思ったので登山路を踏むことにした。
人びとは何を思って山登りするのか。おそらくはただ無心に登るのであろう。「無心に登る」ということは思考を放棄して自然の流れに従うことである。それは自然の中の自然に切り離された存在である人間が、原始の自然に帰納することで得られる無上の快楽である。それはまた、人間社会からの遊体離脱のようなものであり、その後の社会に復帰する恐怖を感ずるものでもある。私はその恐怖ゆえに無心に登ることはできなかった。
山荘から山頂へと至るまでの道中、この唐松岳には雪解の水が流れて出来る八方池という自然の池がある。この八方池の辺りから見る山々は、登山者の心をなだめ、その恐怖を解放してくれる。「恐怖を解放する」というのは、この山の雄大さを前にしては、いかに偉大な人間であろうと自己の卑小さを悔やまずにはいられず、それが人間性を思い出させるからである。
八方池に来てから雲霧もはらわれた。きれいに晴れることはなかったが、山岳を隠すような雲霧または雲霧を隠すような山岳は、日本画の山水を思わせるものである。いったい、八方池から見わたす晴天の一景に何を得るものがあったろう。むしろこうした曇天の一景こそ自然の神秘をみせてくれるものなのである。
しばらく山を眺めると、私の視界はまた雲霧に隠された。芸術家の気分のように山の天気は移ろいやすい。今度の雲霧は足先を隠すほど深く、八方池で引き返さなければ危険だと思わせるほどであった。が、危険を冒さなければ何も得るものはないと思ったので、凄凄たる風雨の中、頂上に登ることにした。
果てしなくつづく路、どこまでつづくのか。八方池ですでに震えていた私の脚は、私の腕力に頼って、スボンの裾を持ち上げられながらはいずり行く瀕死のていである。雨脚は速く私を踏みつけるように過ぎ去り、そして風は強く私を殴りつけるようであった。それでも登るのは何のためか?思考は止まりゆき、意識も遠のいてゆく。生のおぼろげな私は、ここで自然の神秘に出会った。それは一羽の雷鳥であった。私の来訪を待ち受けるように登山路の真中に佇んでいるのであった。私が一歩進むと、それもまた一歩進む。そしてこの雷鳥は死地の寸前の私を山頂に導いてくれるのであった。それは、あのジブリ・『もののけ姫』のワンシーン、主人公・愛鷹を導く妖精・こだまのような光景であった。「自然の神秘」というのは、自然にちかい状態でなければ見ることのない人智の及ばぬ法則かもしれぬ。
気がつくと、そこは山頂であった。見わたすかぎり真白であったが、ただこの〈山頂〉という観念に一時の幸せを得たのであった。そこから帰路につき、何を求めるのかその心的態度によって山登りの楽しみ方は多様になるのだと思った。
令和三年 八月
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