食事の楽しみ方のひとつは、卓上に並べてある料理を思索することだ。食物の生産から消費まで、その過程は生命の物語である。いったい、美しい物語は料理に妙味を添えるものだけれども、醜悪なる来歴は雑味を加えるものである。それゆえ、腕の立つ料理人というのは美しい物語の作者でもあって、他方、卓越した飲食人は料理の読者でもあると謂える。美しい物語の基調となるのは料理人の道徳性であるから、優れた一品をつくるには、作者は香高い品性を持たなければならないし、それを余さず味わうにも、読者は気高い道徳性を具えていなければならない。
料理に思うところなくしては、豪奢な料理も味気なく、反対に、料理の美しい物語は、質素な食事を光彩あるものにする。たとい単品といえども、思いを遠くめぐらすと、その一品に優れた小説のような奥深い物語を見ることもある。ただに料理にのみならず食器にも想いを致すなら、卓上の一皿に探求の尽きない豊かな内容を見るようになる。
人間の嗜好が体調で変わるように、思索によっても料理の味は異なって来る。一見して同じような料理でも、その食の背景に不正があると、味わいは別様に感じられてしまう。まして同じ食物であっても生産の環境が違うと、その味と栄養価はまるで別物である。
料理に旨味を求める味覚偏重は、人間の感受性を粗雑にして、その品性を害う。(これは今日、繊細な作法、筆致による文芸作品に魅せられないことに影響していると思われる)。およそ栄養にならない食事では、心身の健康を保つことはできない。それゆえに正常ならざる味を好み、遂に罹患することになる。これはたとえば痒みを抑えようと爪でひっ掻くも快楽は一時で炎症はさらに悪化するようなことだが、料理の雑味を美味と感じているところ症状は深刻である。
もし、常日頃、卓上の料理を舌で感じるだけではなく、生命の物語として心でも味わうならば、みずからの感受性は繊細になり品性は養われて、味覚は洗練されるので、心身の健康は自然と維持される筈である。料理の美しい物語は、みずからの体調と食卓とを整えてくれるのである。
令和四年 七月
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