大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になります
『桜の森の満開の下』
冒頭の一文である。これを読むと、「なぜ桜の花の下は怖ろしいのか」という疑問が浮かぶ。花といえば桜、桜といえば春の花見、だんご、お酒、女…….などを連想する現代の日本人には得心がゆかない。
そこで、鳥は自由の象徴だとか、海は女性の象徴だとか云うように、この桜の花を美の象徴として眺めてみる。すると、美は悪と謂われる、また得体の知れないものであるから、この作中の山男が都に対して感じるように、未知の事柄への〈羞恥と不安〉が、桜の花に〈怖ろしさ〉を思わせる。ただ怖ろしくもあるが魅惑される、その美しい桜の花の下に、うるさい人間を飾ってみると、桜の花の〈怖ろしさ〉は見えなくなり、日常的な匿しみのある和やかな景観となる。
さて、ふつうに読めば、この作品に登場する美女は、あやしい魅力を具えた満開の桜を象徴するものだろう。この作品の美女は、桜の花と美しいという点で共通しており(桜の森の満開の下です。あの下を通る時に似ていました)、一面では、その美しさで山男を惑わせる「宿命の女」に見える。それは洗礼者ヨハネの首を要求したサロメの嗜好に通じている。
しかしまた一面では、人形劇のような首遊びや山男を言いくるめる詐術などから、この美女は「道化」にも見える。
そこで、この美女は「宿命の女」にして「道化」であると思われるが、よく見ると「宿命の女」でもなければ「道化」でもないとも思われる。
ところで「宿命の女」と「道化」とは互いに共通点が多く、両者を見比べると、かなりの点で一致を見ることができる。しかし「道化」に比べ、「宿命の女」は「女性の魅力」を具えるが、道化らしい「いたずら性」や「創造的破壊性」を缺く。これらの点で両者は明らかに相違する。この作品に登場する美女は、この二者の中間性が美事に描かれた新しい形象である。それは主題の(桜の森の満開の下の)秘密のひとつであった。
ここでは、作中の美女が「宿命の女」と「道化」とにどう結びつくか、またどう結びつかないかを解説する。まず、「宿命の女」とは何であるか。
宿命の女
女性の美しさ、性的魅力、魔力・魔術などを以て、男を破滅へと導くというのが「宿命の女」の一般的な性格である。
「宿命の女」の型は、各地の文化の神話や民話に見ることができる。それは一人の作家による想像の所産ではなく、いつの時代のいかなる社会にもあらわれる普遍的なものであると言える。
「宿命の女」の代表的な形象は、アベ・プレヴォ(1697-1763)の「マノン・レスコー」、キーツ(1795−1821)の「冷たい美女(美しい非情な女)」、メリメ(1803-1870)の「カルメン」、新約聖書の名もなき少女からワイルド(1854-1900)の「サロメ」などの名称で知られる。わが国では、泉鏡花(1873-1939)『高野聖』の美女、また見方によっては谷崎潤一郎(1886-1965)の描く「ナオミ」が「宿命の女」に相当するだろう。上記の形象だけをみても、単に男を破滅へと導くことのみが「宿命の女」というわけではないのである。
『宿命の女』を著した松浦暢によると、
〈宿命の女〉は、妖しい美しさで、男の欲望を永遠にかきたてる対象であり、(……..)男のえがく理想の女性像、ユング流にいえば、アニマ、男の内奥にひそむ女性部分、まだ活性化されていない精神の無意識の未分化部分をえがきだす心の像
という。
この「アニマ」は、いつも無意識に愛人のなかへ投影される。そして、それは、はげしい牽引とその反対(反発)とを生み出す、本質的な根拠のひとつ(生の本来の活動)をなしている(『ユング著作集2 現代人の魂』)。
この異性に投影されるアニマ的〈宿命の女〉像は、個人によって異なるし、「歴史的感情」をもち、時空の制限をうけることがなく、「異常な多面性・多様性という特徴」をあわせもつものである。
したがって、「アニマに憑かれた状態」になった芸術家は、自由奔放に、それぞれが好ましいアニマ的女性像を創造する。上は美しく清純な女神・天使・乙女・妖精から、下は恐ろしい魔女・妊婦・娼婦に至るまで、じつに、さまざまのタイプの複数の女性像があらわれるわけである。
坂口安吾という芸術家が、この「アニマに憑かれた状態」になり、『桜の森の満開の下』に登場する美女(以後、桜の女)を、「宿命性」と「道化性」とを兼ねるような、みずからの「理想の女」として書いたということは後述する。
この引用文の「歴史的感情」の文意は明らかでないが、それは要するに、一時代の観念に囚われず、欲するところを素直に欲し、厭なものを厭だと言う、そういう原始的な感情である。首を欲することのように、「宿命の女」は一時代の思考の枠に囚われない。その自由な状態から出発して、「異常な多面性・多様性」を具え、意識的にまたは無意識的に、男をときに戦慄せしめ、魅惑するのである。
異常な多面性・多様性
「桜の女」が異常な多様性を具えていることは明らかである。彼女はもと都人で、今様を唄える教養人でありながら、首を愛する奇妙な野蛮人でもあった。
「今夜は白拍子の首を持ってきておくれ。とびきり美しい白拍子の首だよ。舞いを舞わせるのだから。私が今様を唄ってきかせてあげるよ」
首だけではなく宝石や着物などを手に入れて嬉しがるさまは、彼女の「超俗」にして「俗物」という二重の性格をあらわしているといえる。また、山男に殺人を唆したり、生首に化粧をほどこしたりするなど、その言動は、時代を超越しており、同時代に生きる人間のすることではない。
成熟した「女」と明確な「性」
「宿命の女」はあらゆるタイプの人物となって表われるため、その人物像を細部まで定義することはむつかしい。しかし「宿命の女」には〈成熟した「女」と明確な「性」が想定されており(工藤康子『サロメ誕生』)〉、この要点において、「桜の女」は「宿命の女」と相違するように思われる。
桜の女は裸体をさらすこともなく、男に接吻することもない(『カルメン』『冷たい美女』『高野聖』『サロメ』)。この作品から男女の甘い関係性(恋愛)が感じられない(『マノン・レスコ』『椿姫』)。これらを思うに、「桜の女」は「成熟した女、女性」ではなく「鬼のような魔性、霊性」が光る形象である。
他面「桜の女」は、カルメンが運命の支配者でありながら男に惚れてしまうように、彼女自身「宿命性」という魔法にかけられているようだ。首か男かどちらかを選ばなければならない場面では、首よりも男を選ぶ。男のほうを選んだのは、女の打算的な譲歩(狡知)かもしれないが、女の愛情が男に映ったこともあろう。彼女は男に依存するようになり、また、男をじぶんの身体の一部として手放せなくなる、「女性性」が光る形象ともいえる。
「私はお前と一緒でなきゃ生きていられないのだよ。私の思いがお前には分らないのかねえ」
「でも俺は山でなきゃ住んでいられないのだぜ」
「だから、お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰るよ。私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの」
女の目は涙にぬれていました。男の胸に顔を押しあてて熱い涙をながしました。涙の熱さは男の胸にしみました。たしかに、女は男なしでは生きられなくなっていました。新しい首は女のいのちでした。そしてその首を女のためにもたらす者は彼の外にはなかったからです。彼は女の一部でした。女はそれを放すわけにいきません。
「創造的破壊性」の不具
「宿命の女」の登場する舞台では、けだし、死と再生といったモチーフの「創造的破壊」を見ない。舞台のクライマックスは男女の性的関係を描くもので、愛が昇化するか破滅するかどちらかである。
「桜の女」は、一面では「宿命の女」の如く、男の欲望を永遠にかきたてておいて、それを容赦なく搾りとり、山賊を破滅へと導く。しかし、また一面では、「宿命の女」とは異なり、首の蒐集・首遊びなどを機として、山賊の世界観を変えてゆく。たとえば、山賊の、山から都への移動、美の感得、「あの女が俺なんだろうか」という悟りめいた疑い、涙く経験、後悔の経験、毒でもあるが薬でもある孤独自体となる経験など。
山賊は、女の魔術の助手となることを悦び、すでに日常性を破壊されているのであるが、それこそは、桜の女による山男の認識の拡張、生の多様性への開眼を促すことであった(創造的破壊)。
魔術は現実に行われており、彼自らがその魔術の助手でありながら、その行われる魔術の結果に常に訝りそして嘆賞するのでした。
「首遊び」という魔術
「首集め」や「首遊び」という趣味は、とても奇妙である。が、それは桜の女の純真性のあらわれで、なによりも美の示現に供するための「魔術」であった。彼女は次のとおり、首遊びをする。
「ほれ、ホッペタを食べてやりなさい。ああおいしい。姫君の喉もたべてやりましょう。ハイ、目の玉もかじりましょう。すすってやりましょうね。ハイ、ペロペロ。アラ、おいしいね。もう、たまらないのよ、ねえ、ほら、ウンとかじりついてやれ」
女はカラカラ笑います。綺麗 な澄んだ笑い声です。薄い陶器が鳴るような爽やかな声でした。
彼女は家に何十個という首を、きちんと並べている。そこには新鮮な生首だけではなく腐った首もふくまれている。山男やびっこの女がそれを動かそうとすると怒るが、彼女が怒るのは、首の配置を変えることが美の発現を害うからだろう。
私見では、人間の肉欲という醜悪は、男であれ女であれ、首から下の胴体に宿る。その胴体を除いて、首だけとなると、それに醜悪は無くなる。ワイルドの『サロメ』を考えてみよう。ヨカナーンの首を銀皿に載せて要求したサロメは純潔の少女であった。その少女の美、すなわち、純潔を保って、かつ愛の夢をくぐり抜けるには、男の瀆起物(=醜い物)を不具とした、特殊な通過儀礼(聖なる接吻)が必要である、と予想される筈である。
「桜の女」のばあい(彼女は前の亭主である大納言に強姦された嫌があるため)、人間とは恐るべき怪物であり、それに死に値する醜悪を見てもおかしくはない。人間の肉体を二分して、それを切り離すのであるが、それでは死ぬだけである。そこで(桜の女は、大納言の暴漢ぶりにも忍従しているようで、優しいのだろう)、彼女は「首集め」や「首遊び」という魔術を使用し、死んだ人間の首という個としては意味をもたない不完全かつ不可解な断片を集めて、一つの物を完成させる。そうして生命を与え、醜悪に満ちた人間を美しく蘇らせるのである(再生)。
これらを考えると、「桜の女」は、男を破滅へと導く「宿命の女」の範疇には収まらない、なにか違う性格を具えていると言えるだろう。たしかに彼女は「宿命の女」らしく、その美しさが魅する男をして、彼女の亭主や、山賊の昔の女房たちを死にいたらしめるーー《山賊は始めは男を殺す気はなかったので、身ぐるみ脱がせて、いつもするようにとっとと失せろと蹴とばしてやるつもりでしたが、女が美しすぎたので、ふと、男を斬りすてていました》。そして山賊を孤独自体に底らしめる。男を破滅へと導く「宿命の女」のようであるが、しかし、それとはどうも勝手がちがう。山賊に精神的進歩をもたらす図である。それは「道化」の性格を具えているようである。
道化
「道化」とは、辞書によると、「人を笑わせるおどけた言語・動作。またそれをする者。おどけ。滑稽(広辞苑七版)」である。
道化といえば、一般にはサーカスに登場するピエロ(クラウン)、それからアメリカの「ジョーカー」、あるいは「ドナルド・マクドナルド」を連想するかもしれない。が、しかし、これらは道化一般の奇妙な面を際立たせるだけであって、文化を豊穣あらしめる道化の英雄的側面=トリックスター的性格を見落とすことになりかねない。
ところで、「ジョーカー」や「ドナルド」など道化の形象は(「宿命の女」と同様に)多くの文化の神話や民話に見ることができる。道化の元祖と謂われる「アルレッキーノ」や、ギリシャ神話の「ヘルメス」「ヘーラクレース」、インド神話の「クリシュナ」(これらは神話的道化とされる)、アフリカ民話の「蜘蛛」「野兎」「エシュ」(これらはアフリカ的道化とされる)など、これらの形象は「始原」や「生成」、また「恋」「盗み」「騒擾」といったイメージを喚起する、エロス(生)という点で、すべてが条件を具えている(『山口昌男著作集 3 道化』)。
「道化」の始原性
「エロス」は人間を生の多様性へと導く、安吾の言では「文学のふるさと」であると思われる。これは「宿命の女」の具えている「歴史的感情」、一時代の観念に囚われず欲するところを素直に欲する、自由な状態に通じている。
山賊が「桜の女」によって日常性を破壊され、生の多様性へと導かれていることは先に述べた。読者が「桜の女」から恐ろしいほどの迫真性と、奥ゆかしい神秘性とを感じるのは、この「エロス」に近接しているからだろうと思われる。この「エロス(生)」の対極に位置するものが、私たちが桜の花に匿しめるような日常性、すなわちタナトス(死)であろう。
「道化」と「宿命の女」とは、日常生活では感じられない「始原」や「生成」のイメージを喚起する、「エロス」「歴史的感情」を具えている点で共通するのである。
「道化」の異常な多面性・多様性
道化は日常世界の技であり、ときに当意即妙に、変幻自在に、あらゆる人物を演ずる役者である。それは自然とさまざまな面をもつことになる。それゆえ、「道化」と「宿命の女」とは〈異常な多面性・多様性〉を具えている点でも共通する。
「道化」の特徴、行動のパターン
道化を細部まで定義するのはむつかしいのであるが、山口昌男の道化論を手がかりにして、先に並べた「アルレッキーノ」から「エシュ」までに見られる道化の特徴、行動のパターンを抽象してまとめてみると、次のとおりである。
- 小にして大、幼にして成熟という相反するものの合一。半神半人、両性具有性
- 盗み、詐術による秩序の擾乱。手のつけられない「いたずら者」
- いたるところに姿を現わす迅速性。定まった住所がない
- 新しい組み合わせによる未知のものの創出
- 旅行者、伝令、先達として異なる世界のつなぎをすること
- 交換という行為によって異質のものの間に伝達を成立させる。
- 好奇心の固まり。常に動くこと、新しい局面を拓くこと、失敗を怖れぬこと、それを笑いに転化させることなどの行為・態度の結合
これを抽象した、a.「自然」(行動ー破壊性)、b.「境界」(仲介性)、c.「文化」(秩序・創造)という図では、
- a.「自然(行動ー破壊性)」に当たるのは1,2,7
- b.「境界(仲介性)」に当たるのは3.4.5.6
- c.「文化(秩序・創造)」に当たるのは4.6.7
となる。
「桜の女」の特徴
ここで「桜の女」の特徴を概念化して並べてみると、
- 「わがまま者(幼)」「女性性のあいまいな存在」「鬼(死)と人(生)との両性」「都鄙の境界(山科の里)に住んでいた(国語の「さと」は神聖な地域を意味する語であったという『字通』)」「“ほお、これがおまえの女房かえ”という揶揄的な感歎」
- 「山家への坂道の途上、男を挑発的にからかう」「男を言いくるめる詐術(知、成熟)」「美しいこと(傾国的)」「首を集めるという反社会性」
- 「(自発的でないが)都→里→山→都→山の移動」
- 「首遊び(魔術)による美の創生」
- 「境界の住人」「両性具有的(地獄の使者のイメージ)」
- 「山賊を日常性から非日常性へ」「創造的破壊」
- 「飽くなき欲望」「澄んだ声でカラカラ笑う(諷刺の卑しさのない笑い)」
となる。すこし牽強かもしれないが、先の道化性の要素ーーa.自然(行動-破壊性)、b.境界(仲介性)、c.文化(秩序・創造)に照らしてみると、「桜の女」は「道化」と全然無縁でなく、その関係性の糸は幾重にも繋がっている。ギリシャ神話のヘーラクレースが神話的道化という見方があるならば、「道化性」の中心の枠から大きく外れているだろうが、この「桜の女」も神話的道化として見ることができよう。(おそらく道化の中心型は「いたずら性」と「当意即妙の変化術」と「殺人を犯さない意志」を具えることを条件とするのであろう)
「道化」の「文化英雄的性格」と「文化の豊穣性」
「桜の女」は道化らしくもあるが、しかし、殺人という点において、また文化英雄(文化を豊かにする)という点において、致命的に道化らしくない。
山口道化論の言を借りると〈道化は、精神的に他人を殺す術に長けているが、肉体的に他人を殺す権力とは一切無関係の知の異相の謂に他ならない〉。これにはジョーカーやヘーラクレースのような例外もあるが、〈道化は決して殺人を犯さない〉。この「肉体的に他人を殺す」という点において、「桜の女」は決定的に道化らしくないわけである。彼女はあちらこちらと首を持ってくるよう男に命じて、文化の基である人間を多く破壊する。だから、道化にみられる、文化に豊穣をもたらす英雄的性格とは潜在的にも無縁だと思われる。
また、エラスムスの痴愚女神の言う「素直」と「誠実」という道化の長所について考えてみると、「桜の女」はみずからの欲望に忠実で素直であるが、現世利益を度外視した誠実(真心)をしらない。道化は「多層の宇宙に生きること」を信条として、それゆえに負けて勝てるから素直になり、そして現世利益を超越してふるまい、娯楽、微笑、哄笑、歓楽、それから発明(ヘルメス)、勇気(ヘーラクレース)を世界に提供するのであるが、これは彼女とは無縁に思われる。
「桜の女」の「文化英雄的側面」
しかし作品世界の視点に立ってみると、この作品の時代、近代組織的な性格を具えていない未開な社会において、「桜の女」は、首にかんする魔術を以て、あたかも錬金術の過程が化学の発展に大きく貢献したように、美学的分野から文化の進歩をもたらしている。
安吾は文化について〈他の発見のないところに真実の文化が有りうべき筈はない。自我の省察のないところに文化の有りうべき筈はない〉と、農村生活に文化のないことを批判した。
この作品では、桜の女(=魔術)が、山男に「他の発見」をーー人間共というものは退屈なものだなと考え、山男は首遊びにふける女の気持ちをわかる気になるーー、また「自我の省察」をーーその先の日、その先の日と、明暗の無限のくりかえしを考え、あの女が俺なんだろうか?と疑ることをーーもたらしている。
すなわち、「桜の女」は、文化の破壊者であるが、文化をつくる豊穣性と無縁ではない。それは安吾の言う「他の発見」と「自我の省察」という文化の本質を示しているのである。
「桜の女」は、男に殺人を唆し、その首を欲するなど、まるで道化らしくない。しかし、彼女は道化のように、秩序の擾乱者として、山と都といった二世界を往来する境界の住人として、魔術を以て文化に貢献している点で、神話的道化性を具えていると言えるのである。「道化」らしくないけれども「道化」のような、また「宿命の女」のようでいて「宿命の女」でないような、どこか二者の中間を揺れる、どちらつかずの、はっきりと言いあらわすことのできない形象である。それは道家の提唱する「道」が、名で言いあらわすことのできないのに似ている。彼女は、あるいは「道」と一体となった、物と遊ぶ境地にある存在なのであろう。
坂口安吾と桜の女
ある作家は坂口安吾を評して、彼には〈どんな作家にもあるような代表作というべきものがない。しかし、安吾が今もわれわれを惹きつけるのは、まさにそのためである〉という。わたしは安吾の全作品を読んでいないので、こう言う資格はないけれども、坂口安吾のどんな作家にもあるような代表作は『桜の森の満開の下』ではないかと思う。
安吾は『理想の女』というエッセイで〈日本文学には、理想の女というものは殆ど書かれていない〉と批判している。日本文学に登場する「女」を考えると、読者の趣味や閲歴によるけれども、個人的にこの「桜の女」とならんで歴然として印象に遺っているのは、『雪国』の駒子である。この女性には実在のモデルがあった。モデルがあれば、作家が描写する助力になるだろう。それもあり、雪国の女性の印象は強く光っている。しかし、この「桜の女」には実在のモデルはありえない。それは安吾の想像上にのみ生きる存在である。桜の女が読者の心に異常に鮮明な印象をもたらしていることを思えば、その形象は、天才による表現というよりほかにない。
また、安吾は、理想の女をもとめない文学(漱石・藤村・荷風の文学)を否定して、最も正統的な文学を、ロマンのある思想と戯作との合作品としている。
日本には、さういふ文学の正統、つまり、ロマンといふものゝ意慾が欠けてゐた。つまりは本当の思想が欠けてをり、より高く生きようとする探求の意慾がなかつたから、戯作性との合作に堪へうるだけの思想性がなく、ロマンがなかつたのである。(…….〕私ぐらゐ正統的な文学は、むしろ、日本には外にない。私のめざしてゐるものは、ロマン、思想家と戯作者の合作品であり、最も正統的な文学だ。
『理想の女』
文学への態度(ロマン)をはじめ、「思想性」(宿命)や「戯作性」(道化)を存分に反映している『桜の森の満開の下』は、ほかのどれよりも安吾の文学を代表する作品であろう。あの「桜の女」は、安吾が「理想の女」とした、日頃から口にするレヴェルの、真実血肉のこもる信念思想の表現なのである。
あの女が俺なんだろうか? そして空を無限に直線に飛ぶ鳥が俺自身だったのだろうか? と彼は疑りました。女を殺すと、俺を殺してしまうのだろうか。俺は何を考えているのだろう?
という呟きは、じぶんは女のキリのない欲望の化身ではないかと疑ぐる場面である。ここに、坂口安吾が「桜の女」と表裏一体である関係性を、あるいは安吾の人生の写鏡を見ることができよう。安吾の表現は、下のとおりで、文学のふるさとに棲む「鳥」が、必要から飛翔する性のものであった。
どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。(……)
問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。汝の生命と引換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なる物を取去り、真に適切に表現されているかどうか、ということだ。
『日本文化史観』
小説・芸術とは、みずからの生命と引換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの活動である。そうして、己の精神の流血に染まる筆から生れたものが、あの得体の知れない、どこか怖ろしくも魅惑される、桜のように美しい女、「宿命性」と「道化性」とを兼ねるような、安吾が理想とした女だったのである。
令和五年 二月
※Wikipedeaによれば『桜の森の満開の下』は坂口安吾の代表作と評されている。
奥野健男は、『白痴』、『青鬼の褌を洗う女』、『夜長姫と耳男』と共に『桜の森の満開の下』を挙げ、「これは天才でなければ絶対に書けぬおそろしい傑作であり、坂口文学の最高峰といえよう」と述べている。また、坂口の全作品でどれか一つを選べと言われれば、『桜の森の満開の下』を挙げるとし、「芸術の神か鬼」が書いたとしか思えず、世界の文学の中でもこれほど「美しく、グロテスクで恐ろしい作品」は稀だと評している。
関連するもの:
- 『坂口安吾名作選』 桐畑夕子 朗読
- 『決定版 坂口安吾全集 決定版日本文学全集 』
- 『ユング著作集 2 現代人のたましい』 高橋義孝 , 江野専次郎 翻訳
- 『山口昌男 著作集 3 道化』今福龍太 編集
- 松浦暢『宿命の女―愛と美のイメジャリー』
- 工藤康子『サロメ誕生―フローベール/ワイルド』
- 坂口安吾wikipedia
- 坂口安吾|『堕落論』の読書感想
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