「ルールだから」という理由で、髪染めはダメといわれてきた人は多いかもしれません。
しかし、ルールといわれても、納得できる理由は教えられない場合がほとんどでしょう。
この記事では、なぜ学校が髪染めを禁止しているのか、その理由を現代の社会と照らし合わせてご紹介します。
多くの学校が髪染め禁止
中等・高等教育において、髪色を金・銀・茶などに変える「髪染め」を禁止している学校はほとんどです。
すでに知っているかもしれませんが、
現代の学校教育は生徒たち個人の自由を第一に考えています。
自由が第一に考えられるのに、
「なぜ学校は髪染めを禁止しているの?」
と、生徒としては疑問に思うことでしょう。
「髪を染めることは私たちの自由じゃないか!」と反論したい気持ちはわかります。
しかし、「髪染め禁止」というのは自由を考えた上で、
生徒全員、社会を考えた上での規則なんです。
(もちろん、学校の体裁もあるかもしれません)
学校が生徒に髪染めを禁止する理由は、自由が行き過ぎることをおさえるためだからです。
学校での髪染め禁止は全体の秩序を保つ
考えてみてください。
生徒たち個人が何でもかんでも自由にーーここでは髪染めーーをするとします。
髪を染めることが自由になれば、次はコレ、次はコレと、生徒はあらゆることに自由を求めるようになります。
そのうちに、生徒は自由が絶対と考えるようになります。
自由が絶対という感覚、極端にいえば、行き過ぎた自由教育を経て社会に出て行く生徒(個人)には「なんでもありの社会観」が芽生えてしまいます。
なんでもありの社会観が芽生えてしまえば、個人が好き勝手に思ったことを口走り、突拍子もない行動に出ます。
たとえば、「麻薬を吸うのは自分の自由だ」というように。
その結果として現れてしまうのが社会の揺らぎ、いわゆる全体の秩序の崩壊です。
学校が髪染めを禁止している真の理由は、行き過ぎた自由を抑圧して全体の秩序を保つ必要があるからです。
自由と全体
しかし、全体の秩序を考えてしまえば、自由が全体に見劣りしてしまいます。
生徒・個人の自由は全体を考えた上でのみ成り立つのでしょうか。
この境界線を学校の「髪染め禁止」という規則で上手くまとめているのです。
学校側の髪染め禁止は、自由は認められる。しかし、自由には限度があり、全体を見渡す必要性があるという感覚を生徒・個人に呼び覚ましています。
「髪染め禁止」は生徒が全体を見渡す「鳥瞰する力」を身につけられれば、必然的に緩和されるでしょう。
この章でご紹介した「自由と全体」を考える問題はあらゆるところに存在しており、議論されています。
どれもむずかしい問題ですので、カンタンに解決できないことを最後に付け加えておきます。
最後まで記事を読んでくださり、ありがとうございましたm(_ _)m
コメント
なんか浅い議論なんだよな
全体の秩序のために個人の自由が制限されるのはその通りだが、では髪染め禁止は制限するほど秩序を乱す自由なのか、麻薬とは性質や、実際に社会に与える害が違うのではないか。
そういったツッコミどころが多々あるように思える。
髪染め禁止の校則については、日本人の黒髪はもっとも美しいというのはもちろんですが、まじめに話を深いところから広範囲に展開すると、日本の文化、日本の政治スタンス、国際政治にも関わります。
サニーさんの仰る「実際に社会に与える害」を考えると(害であるとは益であるといえるかもしれないのですが)、一見して麻薬に比して髪染めは、それが社会の秩序を乱すために制限されるほどの禁止事項ではありません。ひとりの学生が黒髪を金色に染めたところで、社会の秩序をその存続が危ぶまれるほどに乱すというのは考えられないでしょう。
しかし問題はここにありますーー表面を一見するだけではわからないことほど、その深層には大きな問題が含まれている。
それで問題は、学校で髪染めを認めてしまうと(この小さなことが認められると)、それにより身についた自由な心的態度によって、より大きな規則を、日本の社会基盤をひいては地球を揺るがすことになってしまう(というと論理の飛躍がすぎるように思われるでしょうが…..)恐れがあるということです。これはことばが変わると思考が変わるようなことかもしれません。私たちの思考が言語に依存しているように、重要と思われぬであろうことばが、どれほど私たちの思考を決定しているかを考えれば、一つの小さなことが、一つの大きな国の政を決定してゆくことは、容易に類推されるはずです。また、おまけにいうと、学校で髪染めを禁止することは、日本の文化的感情を育むことにもなります。
おそらく髪色を染める国風は、さかのぼること明治時代、文明開化によって生まれ、戦後に一気に広まっていったものでしょう。日本の文明開化によって開化されたのは、日本が先進国といわれるようになった物質的自由のみならず、髪色を染めることに見られるような精神的自由でもありました。微妙に開化されたこの精神的自由というのは、自由・平等を人民に普及する民主主義の原理を、日本の社会に根づかせることであり、これはまた当時の日本の政治システム、超国家主義的構造に致命的なダメージを与えることでした。天皇に神を見る日本の政治システムは、だれもが自由・平等ということになれば崩壊し、その存続は危ぶまれてしまうことになるからです。
さて現代、髪染めを禁止するという校則を設けたのは、このような事情があるからといえます。青少年期(10代)から自由礼賛(自由万歳!)という心的態度が根づいてしまえば、あたかも「Z世代」が小さな頃からスマホをもって世界の人々とつながり、その感覚の国際性が養われているように、その自由礼賛という心的態度がそれ以降の人生(または国家)を方向づけてしまうことになりかねない、と。私たちは根本的に自由であるべきですが、その自由が一気に根づいてしまうと、あたかも一つの積み木を勢い引き抜くことで予想されるように、個人もろとも全体が(その精神的なものが)崩壊することになりかねないのです。髪染めを禁止するという校則は、ひとつにはその崩壊を免れるようなストッパー的効果をもっていると考えられます。
そしてまた、髪染めの禁止という校則と個人的自由という矛盾を、青少年期より抱えながら生きることは、白黒つけない曖昧な日本の文化的感情を育むことにもなるでしょう。それはもっとも頭の悪い考え方でもありながら、もっとも頭の良い考え方でもあり、あるいはそれは世界でもっとも美しい感情かもしれず、自由の意味を問いなおす契機を与えてくれる筈です。
サニーさん、「全体の秩序のために個人の自由が制限されるのはその通りだが…..」と仰いますが、実のところ個人の自由とはより大きな全体の生命を維持することであり、「全体の秩序のために個人の自由が制限される」と仰るのはまだその段階に至っていない、ということができます。これはこのときのわたしにも見えていなかったことで、このブログ内の「祖述とは何か|芸術家たるの条件について」にその根本的理由が書いてあります。ただし、天皇に神を見ることはない現代の日本の社会において、もしまた天皇に神を見るような風潮が、開花されることのない精神的自由とともに吹きはじめるとなると、学校で髪染めを禁止するようなことーー生徒の個人的自由を、学校の全体主義で上塗りすることほどーーばからしいことはありません、と言っておきます。
それとまた「日本人の黒髪はもっとも美しい」というのは、それが軽薄でなく毅然としていて、他人に媚びることのない洗練された色であるからです。
うちの子が通っている小学校は服装やバック、髪を染めるのも自由です。
1、2年生から髪を染めている子もいます。うちの子も染めています。
自主性を重んじていて、いろんな事を子供たち主導で企画したりします。
麻薬なんてもちろん誰もやっていません。ひどい記事でびっくりしました。
カーサ様
この記事を読んでくださり、またコメントいただきましたこと、うれしく思います。
私もこの記事(ブログ)を読んで、ことばがたりないという点ではちょっとひどいな……と思っています。当時は思ったことをよく考えもしないで書いておりましたので、その点カーサ様ふくめ読者の方々に申し訳ありません。
ただし、髪染めを禁止する規則については、ここにことばを加えたいと思います。
学校で生徒の髪染めを認めるということは(カーサ様のおっしゃるとおり生徒の自主性を)生徒の個性(的なもの)を尊重することで、多様性を認めることでもあります。
生徒は自分の髪を、今日は青色、明日は赤色という具合に、自由に彩ることができます。
美しさに惹かれるのはすべての人間に備わる傾向性ですので、生徒は何かに憧れて、純粋にそれが「かっこいい」「かわいい」から髪を染めるのでしょう。
今日、多様性を認めることは人びとにあたりまえのように捉えられています。
しかしながら多様性を認めることで生徒が自由にふるまうあまり、先生は生徒を恐れてご機嫌をとり、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育掛かりの者に対しても同様の行為をとる。一般に若者たちは年長者と対等にふるまって、ことばにおいても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者たちに自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる。生徒の自由・多様性を認めることが、逆に画一的な人間を(一様性を)社会にもたらすというわけです。
また、学校の規則というのは、よりひろい社会に出るうえで、また「人間の成熟」にとって、非常に重要な役割をもっているーーということも付け加えます。
自分は髪を染めたいのだけれども、しかし学校の規則があって髪を染められないという矛盾に慣れることは、社会に生きるうえでも人間に欠かせない資質です。髪染めのような規則があるからこそひとは別の自由をみつけようとするもので、迷路のような社会で、どこか自由の出口を見つけるように生徒をうながす、この規則ははたして本当に無用でしょうか。
二十代の青年が「人間の成熟」について話すことは、カーサ様ふくめ読者の反感・物笑いを避けられませんが、それを重々承知のうえで。「人間の成熟」というのは、みずからが張り裂けるような矛盾を・物事の全く相反する極端と極端とを一身に兼ねて、そのような状態で平静を保つことにあり、そしてその平静から突き出るようにして生まれるものが人間の真の個性であると私は思っています。
髪を染めることのように何かに憧れるきもちはすばらしいものです(私はその感じやすさが好きです)。しかし髪を染められないという反対のきもち(反感)をもつことは、押し寄せる波がサーファーを上達してくれるように(人間の成熟にとっても)必要なことではないでしょうか。
さてここからは私は独り言のように思うことを書くだけですので、もし興味がありましたら読んでいただければと思います。
私はいま「優美について」という記事にとり組んでいます。これは上村松園《序の舞》をみたときに得た感動を(美的体験を)どうにかこうにか表現できればと思い進めているものです。今月末には完成する予定のものの、大半は仕上がっていますので、その断片をここに記すことにいたします。
《序の舞》は松園自身が『青眉抄』で、
と語る作品です。
絵の女性は、一方では雅やかな、他方では艶かしいものが、みずからの内部で張り裂けるように思わせることなく均衡を保った状態で舞うかに見えます。それが極みと極みとを美しくつないでいる色彩の階調(グラデーション)によってもあらわされている。
ところで優美の〈憂〉は一般に優しいの〈優〉でもあり、その字源をみると、憂には「かなしみ」の意が込められている。「優しい」が「かなしい」というのはちょっと矛盾しているようにみえるかもしれませんが、そこに矛盾を覚えないところに人間の成熟があり、そうして芸術作品と対峙したときにその深みがさらに味わえるのだと思います。
別の話に移りますが、私はちょっと前に佐伯啓思氏の『さらば、民主主義』という本を読みました。政治にうとい私にもわかりやすい本で、そこで目を見開かされる一文がありました。「民主主義と共和主義とを混同視するところに戦後日本の政治の貧困がある」というような内容でした。そのちがいをざっくりといって、民主主義とは、人民主権、大衆迎合主義をいう一人ひとりの意見を尊重する政治体制で、共和主義とは、公的な判断能力をもたない者は政治に参加する資格がないという政治体制です。
日本は民主主義を採用しています。だから一人ひとりの意見を、それがたとえ個人の願望を出ないものであっても、人民が主権をもっているということで尊重しなければなりません。
幸せにことばは要らないのと同じで、現在が満たされていれば政治に関心をもつことはないでしょう。ふだん無関心のことが、それがどれほど敬意と愛情に満ちてなされた決定かを察するような儒教的理念(あるいはほんとうの優しさ)は、現代日本に求められているような気がします。
※多様性を認める件はプラトン『国家』を引用いたしました。