「私」の住む家の門には不思議に蔦がある。「私」の家に住まう老婢のまきは自然や草木に対しては割合に無関心なのだが蔦の芽には関心を寄せる。
たほうではその蔦の芽をむしりとる悪戯をする、葉茶屋の養女のひろ子。だれとは知らず、蔦の芽をむしりとる悪戯を知った老婢のまきは、その場で遊んでいたひろ子たちに疑いの目を向ける。
しばらくして悪戯に飽きたひろ子は、それ以降、蔦のある家には姿をあらわさず、まきはなぜか日々さびしさが募る……
そして一転して、とうとうまきは、ひろ子の住まう葉茶屋へと向かう。
岡本かの子|『蔦の門』の解説
当初、老婢のまきは葉茶屋の養女であるひろ子とは敵対していた、また蔦の芽をむしりとられることに対しては怒っていた。だが、それらが一変に流転する。
物語のはじめには「仲違いの関係」であったまきとひろ子とは、終盤には「仲睦まじい関係」に変わり、蔦に惹かれたまきの関心は、かつての敵役のひろ子へと流れてゆく。無常観。岡本かの子の文学に縁のある「無常観」が、本作『蔦の門』を色づける。
『蔦の門』の語り手である「私」は、まきの関心の移り目をみて、つぎの西行法師の歌の句を胸に浮かべる。
《まきも老いて草木の芽に対する愛は、所詮、人の子に対する愛にしかずといふやうな悟りでも得たのであらうか。
私は、それを見て、どういふわけか「命なりけり小夜の中山――」といふ西行の歌の句が胸に浮んでしやうがない。》
命なりけりの〈命〉とは、岡本文学の重要概念である。おそらく岡本は「贈りもの」という意味で解釈しているのだが、単なる「贈りもの」ではなく、そこには「運命」や「宿命」といった「天からの贈りもの」といった意味が込められている。
ところで「小夜の中山」の峠には「真言宗の久延寺」や「事任八幡宮」があり、多くの人々が「旅の安全を願って」立ち寄ったと伝えられている。
強引な当て推量ではあるけれども、西行の句をふと思い浮かべた語り手の「私」は、まきとよう子との関係が移り変わり、相互に助け合う様子から、「天の命(贈りもの)」と「無常観」とをみて取ったのであろう。
語り手である「私」はさらにいう。
《門に蔦のある家を私たちは黙契のうちに条件に入れて探してゐたのかも知れない。
暗黙のうちに成り立つ意志の一致という意味の〈黙契〉は、ーー岡本文学の重要概念でありーー「人智を超えた営為」の救済または縁を示唆している。
『蔦の門』を読みはじめる当初、私たちは、まず「私たちの興味・関心」が先立ってから、その後に本を読む。では、その「私たちの興味・関心」の出処はどこか。その出処のもとは「人智を超えて」おり、なにかの「縁」である。
そのようにして、そうまでして岡本かの子は、なぜ、また「人智を超えたなにを」待っているのか。
令和二年 六月
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