寿司屋を題材として生滅流転の無常観が描かれる岡本かの子の短編小説、『鮨』。
古くからある普通の寿司屋、「福ずし」へ来る客は十人十色。「福ずし」の看板娘のともよは、客のなかの湊という五十すぎの紳士になんとなく関心を寄せる。
たまたま「福ずし」の外で湊と鉢合わせたともよは、「鮨」にまつわる湊の身上話を聞くことに。いつからか湊は「福ずし」に顔を見せなくなり、ときが流れるにつれて、湊の記憶はともよのなかから流れてゆく。
岡本かの子|『鮨』の要約と解説
岡本かの子の短編小説『鮨』は、生滅流転の無常観を凡庸に徹して描かれる物語である。大別すれば「寿司屋の日常」と「湊の身上話」との二編が物語を構成している。
一見して凡庸な、軽いとも重いとも思われない無常の雰囲気を醸成する、抑制と冒険との均衡を神経質にとがらせて描ける熟練の技術。『金魚繚乱』で描かれる比喩の多彩な絢爛たる文体と、『老妓抄』の背景にある明敏や寛大、著者の人となりとを前提にしなければ決して描かれない技術だと思う。
感情によって冒険される句のつぎには知性で抑制される句が、つぎには感情句が……といった、単調でサンドイッチ的な文章が生滅流転している。そこには何かある法則が働いており、決して圏内からは突き出ることはない。
「寿司屋の日常」は軽い感情的な雰囲気を、たほう「湊の身上話」は重い知性的な雰囲気を醸している。たとえば湊が、幼年期のころのじぶんを、ともよへ話す以下の場面。
《すでに、自分は、こんな不孝をして悪人となってしまった。こんな奴なら自分は滅びて仕舞っても自分で惜しいとも思うまい。》
すでに幼年期から厭世感をもつ湊は、このときに悪を自覚する。
《生きているものを噛み殺したような征服と新鮮を感じ、あたりを広く見廻したい歓びを感じた。》
悪を自覚したあとの湊は、もう立派な悪人であった。それゆえ、この世に取り出された生けるものに抵抗がなくなった。そして《十六七になったときには、結局いい道楽者になっていた》のである。前半の「寿司屋の日常」で見られる、おとっさんと客の戯れとの軽い雰囲気とは対照的であるといえる。
ついでにいっておくと、ともよが湊から「湊の身上話」を聞ける間柄になったのは偶然ではない。つまりともよが湊に関心を寄せたのは偶然ではないのである。ともよと湊は人生一般に対する生滅流転の無常感を、もしくは諦念感をもっており、二人の境遇は似通っている。
ともよは、世の中をころあいでこだわらない、いささか稚気のあるものに感じており、無邪気に育てられ、表面だけだが世事に通じ、軽快でそして孤独的なものをもっている。
湊は、身が汚れるような思いから食事を苦痛と感じており、潔癖で、髑髏魚という趣味をもち、まだ他に「お母さん」と呼ばれる女性があって、どこかに居る気がすると想っている。
「湊の身上話」のあとには、それ以降は「福ずし」に湊は姿をあらわさず、ともよの記憶からは湊は流れてゆく。
決して感傷的ではない締めくくりが、無常の趣をいっそう醸成している。ここには日本のしきたりともいえる余韻をおしむ態度が、あることがらの決定を避けて未決定のままときの流れに身を任すという自然感がみえ隠れしている。
令和二年 六月
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