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岡本かの子|『越年』の要約と解説

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ある会社に勤める男性社員、堂島が、物語の主人格である同僚の女性、加奈江に平手打ちをくわした。その日のうちに退社届を会社に送った堂島は、そのあと会社には顔を見せずに、加奈江の前には復讐時のほかには姿を現さなかった。

 

いったい堂島は、どうして加奈江に平手打ちをくわしたのか。その理由を加奈江は知るべく、また復讐のために、同僚の明子とともに堂島探しをはじめる。

 

岡本かの子|『越年』の解説

 

堂島が加奈江の頬に平手打ちをくわした理由は、はっきりしている。それはじぶんに加奈江の関心を惹きつけることであり、女を夢中にさせるという高尚で卑しい快楽のためであった!

 

堂島の同僚からの評判は、頭のいい、女殺し、である。堂島が〈恋愛の法則〉に精通していたのは不思議なことではない。

恋愛の法則、すなわち恋を打ち明けたその瞬間から恋が単調で退屈なものに成り下がるその法則を、女殺しで頭のいい堂島は知っていたのだ!

 

「銀座の裏通りに堂島はよくあらわれる」、そう聞いた加奈江は、同僚の明子とともに師走から正月にかけて銀座の裏通りへ堂島探しに向かう。十日は費やした師走のうちの堂島探しは失敗に終わったが、年の越えた正月、堂島探しの休息日に、資生堂ちかくの辻角で、思わずして加奈江と明子は堂島を見つける。

 

加奈江は堂島に平手打ちをくらわし、みごとに復讐は成就された。加奈江に平手打ちをくわした堂島の動機は、何だったのか。それはのちに堂島が加奈江に差し出す手紙で明かされる。

 

「ある男より」という名義にて、堂島は、加奈江に好意をもっていた〈かのように〉熱情的な文意の手紙を加奈江へ差し出した。

その手紙の内容から、加奈江は、堂島の〈偽りの〉熱情にこころを打たれてしまう。手紙を読んだ日も、次の日も、その次の日も、もう現れない堂島の姿を追って、加奈江は堂島に夢中になっていく。

 

かくして堂島は加奈江の関心を惹くことに成功し、女を(精神的に)骨抜きにいたらしめたのである。なんという男であろう、堂島潔!

 

 

そしてほんとうの物語はここからはじまるのであった。

次なる著者のトリックが一等おもしろいところであり、それは加奈江の友人である明子が、堂島の腹心の可能性である。

 

『越年』は岡本かの子の晩年の作品である。

であれば、さまつで無意味な文意は考えられない。加奈江の提案である「スエヒロかオリンピックで厚いビフテキでも食べない」とは、明子が待ちのぞんだ提案だろう。(もしくは岡本かの子のお得意な〈意識して求める方向に求めるものを得ず〉の趣をつくるため。)

 

堂島は頭のいい女殺しである。これまでにも何人かの女を〈精神的に〉骨抜きにしてきたにちがいない。つまり女を夢中にさせる達人であり、加奈江の堂島探しを続行させるためには協力者がいなければならないと思ったのだ。それが明子である。

 

わざわざ同僚の復讐を成し遂げる手伝いのために、師走から正月にかけて、同僚に付き合うというのは、無条件にしても出来過ぎだろう。堂島探しにおいて、いつもあきらめかけた加奈江のあいの手を入れてきたのは、誰であろう明子であった。

 

明子が堂島の腹心であるという可能性は、無きにしも非ずといった程度であり、ほんとうのところは誰も知らない。

 

しかし、もし、堂島のような巧妙なトリックを披露して女の関心をべつの角度から惹きつけるためだけに『越年』が執筆されたのならば、本作品は秀作ではない。ここへ先の可能性が、すなわち明子が堂島の腹心であるという可能性が加えられるのであれば、本作品には意義を見出せる。

 

なぜならばそれはあらゆる前提を疑ってかかる思考、すなわち批判的思考を養成するからである。

 

令和二年 六月

 

 

 

 

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