車やバイク等の運転が私たちを興奮させるわけは、ひとつの過ちが運転手の死に直結するからであろう。すなわち運転時というのは死を身近に感ぜられるので人の生存本能がはるかに敏感であり、運転手は、みずからのゆくてを阻むものを消してやりたいと思ってしまうのである。
忍耐力の足りない運転手ならば、ゆくてを阻むものに対して、中指を突き立てたり、クラクションをやかましく鳴らしたり、仕返しを企てたりする衝動を抑えられない。交通戦争とはその結果であり、年に数十万人を負傷させ、数千人を死に至らしめている。
いっときの衝動を抑えられない私たちの忍耐力はこうも脆いものであるのか……
いっときの荒ぶる感情を抑えられるならば、交通戦争はすみやかに沈静化され、事故は減り、渋滞はやわらぎ、目的地までの移動時間は短縮されることになる。経済活動にも貢献できる。なんと言っても、荒ぶる感情を抑えることは、私たちの忍耐力を強靭たらしめるであろう。それが成功に至る道であることは間違いない。
いかなる場合でも怒らず冷静沈着であること
渋滞や危険運転に巻き込まれたり、急用がありながら信号に足止めされたりと、それでもなお怒ることなく冷静沈着である人はめったにいない。そういう人の忍耐力は常識を超えている。だからこそ、いかなる場合も怒らず冷静沈着でありつづけて、常識を超えた忍耐力を身につけるのである。
信号に感情を支配されないこと
なぜ運転手はこうも信号に感情を支配されてしまうのか。
信号が黄色に変わりあやうく渡ることができれば、運転手の感情は小躍りする。しかしすんでのところで渡れなければ、感情は荒ぶる。運転手の感情の起伏が信号に支配されるくらいなら、はじめから渡らない決意をしておく。そうすれば、信号が黄色でも渡るか・渡るまいかと思い惑うことはなくなる。
どんな人にも道を譲ること
人に道を譲られてしたり顔をしている運転手がばかみたいに走っている。その運転手は、道を譲ることは負けであり損であり精神の弱さの現れであると考えているにちがいない。しかしその考えは取るに足らない。そういう運転手は器が小さいのはともかく、なによりも勇敢ではない。
「人に道を譲ること」と「人に道を譲らないこと」とを天秤にかけてどちらに難易度の秤が傾くか。その傾きが沈んだ方(つまり難しい方)を選ぶならば勇敢であるが、その傾きが浮いた方(つまり易しい方)を選ぶならば怠慢である。
やがて「道を譲ること」もしくは「道を譲らないこと」が習慣となれば、左右の秤の傾きは逆転するかもしれない。そのときはもう天秤を用いずに自身の心に従って判断するのである。たとえ杖をついた老人とあっても道を譲らないことができるのなら……
いかなる場合でも怒らず冷静沈着であり、信号に感情を一毛たりとも支配されず、どんな人にも道を譲ることができるのなら、その運転手の忍耐力はすでに強靭なものである。忍耐力が強靭となることで何が得られるのか。そこにこそ私たちの目的はある。こうした忍耐力を鍛えることが成功や人格の完成に至る道なのである。
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令和二年 十二月
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