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アルフレッド・ド・ミュッセ|『ガミアニ夫人』の要約と感想

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1833年、フランスで出版された『ガミアニ夫人』は、ロマン主義作家のアルフレッド・デ・ミュッセ(1810ー1857)の22~23歳のころの作品である。出版当初は匿名であったが、のちに著者がミュッセであることが判明した。19世紀に最も多く読まれ、最も多く復刻された作品といわれる(41版以上)ベストセラー。

 

 

ミュッセ|『ガミアニ夫人(悦楽の園)』の要約

ミュッセ『ガミアニ夫人』のイラスト

3人の女性と1人の男性の狂乱

 

ガミアニ伯爵夫人のサロンでは舞踏会が開かれる。

若くして金持ちの世間から賛美される美しい未亡人、ガミアニ夫人。一部のものの間では薄情女や同性愛者などの憶測がとびかう。どこか妙な夫人の正体を見透かすために、物語の語り手アルフレッドは夫人の寝室に忍びこみ、夫人の正体をのぞき見ることをきめる。

 

舞踏会が閉幕したあとに、夫人の友人のファニイ嬢が夫人の寝室にあらわれる。

そこで二人の交合をのぞき見るアルフレッドは、理性による抑制を突き破って、現場に乱入する。三人の狂乱のあとの後戯は、それぞれの性的体験の告白会がはじまる。

 

他日。ふたたび夫人とファニイ嬢との二人は交合する……そして二人は絶頂に逝く。

 

ミュッセ|『ガミアニ夫人(悦楽の園)』の感想

 

ガミアニ夫人の獣姦の逸話について

 

 

あたし、はじめて驢馬ロバをためしてみたときは、お酒に酔っていました。なみいる尼さんたちにいどむようにして、台の上へとびあがったのです。すると、驢馬が革帯でうまい具合に立たされて、すぐさま、前の方からあたしにさしむけられました。

 

 

……修道院時代の夫人の回想であり、驢馬が夫人の宮殿を探検する。

このように人間と動物とが性交渉するのは「獣姦ジュウカン」とよばれる。荒唐無稽としかいえない性交渉ではあるが、「獣姦」における絶頂・快感は、禁欲主義者である私には真面目に考えるに値する主題である。

 

ふつう女性の絶頂には絶大なる安心感が求められる。不安定な精神状態では女性は絶頂には到達しない。おそらく「獣姦」で女性が絶頂に到達するのは、というよりは性的に感じる場合は、極めて人間嫌いであるのか、男性恐怖症であるのか、あるいは泥酔のような精神の錯乱状態にある場合である。この場面では、ガミアニ夫人は酒を飲んでいるから精神の錯乱状態にあったといえる。

 

あるいは、こういう場合も考えられる。それは驢馬との性交渉という前人未到の快挙という観念が、女性に快感をあたえる場合である。スポーツのように目的を達成するという快感、開拓や制圧といった快感、それらが女性に性的快感をもたらす場合もあるのだろう。

 

官能の論理

 

『ガミアニ夫人』を読みながら、ふと、「芸術的論理」や「市民の論理」とはまたべつの論理である「官能の論理」によって世界が描かれている、そう思った。

 

「芸術的論理」で描かれる世界とは、人間の本性をもとにした現実世界の常軌逸脱であり拡張である。わけのわからないような文学の心理的描写はここに該当する。

 

また「市民の論理」で描かれる世界とは、私たちの現実の生活をもとに、社会の秩序を維持しながら冒険される、「通俗的作品」や「通俗小説」といったものが該当する。

 

『ガミアニ夫人』で描かれる「官能の論理」とは「芸術的論理」と「市民の論理」との融合である。社会の秩序を維持しながら現実世界を逸脱する、ふだんの生活ではみえない現実世界の大胆な拡張である。それは決して虚構ではない現実的世界なのである。

 

近代文学や現代文学は「芸術的論理」と「市民の論理」との二重構造による、虚構ではない現実的世界が描かれるが、「官能の論理」はまたことなる世界を描いている。

 

絶頂に、逝く

 

物語の最後はガミアニ夫人とファニイ嬢とが毒薬をのみこみ、二人が絶頂に到達して死する。

苦しみながら床の上で死ぬよりも、絶頂によって死ぬことは最大の仕合わせなのかもしれない。

 

令和二年 六月

 

 

 

 

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