『日本語の水脈』という本によると、たのしいの語源は、酒やたばこといった嗜好品、音楽などに恍惚と酔い、しびれるような身体的な満足、繰り返したい充足を得ることである。「たのしい」は、中世になると「お金持ちである」や経済的に「豊かである」を意味するようになった。
「たのしい」の状態を表す漢字には、主に「楽しむ」「愉しむ」「娯しむ」があり、このほかには「耽しむ」「凱しむ」「予しむ」などがある。それぞれの字の違いについて記したい。
楽しむ
楽しむの「楽」は柄のある手鈴の形。白川静『字通』に「鈴を鳴らせて神をよび、神を楽しませ、また病を療したので、療の初文は〈尞〉ではなく〈楽〉」とある。『論語』に「未だ貧にして楽しみ富みて礼を好む者…..」とあり、「貧しくても人間の生き方を考えたり、豊かであっても世の道理を求めようとする者」と訳されている。訳者・加地信行氏によると、「〈楽〉は、かつて「楽道」(道を楽しむ)となっていたテキストもあった」という。
字形からみて「楽しむ」と漢字で表現するときは、それはリズミカルな音楽的なたのしみを意味するのであろう。また、神なき時代にあってみれば、いたずらな快癒法とも言えるだろうか。
娯しむ
「楽しむ」も「娯しむ」も「神をたのしませる意を示す字」。「娯」の声符は呉。呉は巫女が祝詞の器をささげて舞い、神を楽しませる形。巫女が舞って悦にいるときに「娯しむ」というのが適切な用法かもしれない。
愉しむ
愉快の愉で、声符は兪。兪は把手のある手術刀(余)で脳漿(のうしょう)を盤(舟)に移す形。ものを他に移す意、病苦を除いて心安らぐことを愉という。『論語 郷党』に「私に覿ゆるには、愉愉如たり(私覿、愉愉如也)」とあり、くつろいだ楽しげな様子をいう。
予しむ
予しむの「予」の初文は「豫」。例は少ないけれど、『孟子』に「我が王、豫ばず」とあり、『字通』によると「不予、悦予、逸予の意に用いる。舒緩の意」という。
または、『論語、八佾』に「予を起こす者は商なり。始めて与(とも)に詩を言う可きのみ。(子曰、起予者商也。始可與言詩已矣」とある。これは弟子の商(子夏の名)と詩を語り合えることについての共感を表現している。だから予を起こすようなたのしい状態を「予しむ」と言ってもいいのではないだろうか。
耽しむ
耽の声符は冘(イン)。冘に沈(ちん)・酖(たん)の声がある。説文に「耳大いに垂るるなり」とあり、儋耳(おそらく大きな耳を担う)の意で、儋(タン)と通用する。儋の訓義にやすらか、さだまるとある。『楚歌』に「霊脩(君主)に留まりて、儋しみてかえることを忘れる」とある。何かに耽る(たとえば読書に耽る)など、おそらく「耽しむ」は飲食などを忘れて一つことに没頭するような表現であろう。
凱しむ
白川静『字通」を読むと、「凱」には「たのしむ」という訓み方がある。凱の声符は豈(がい)であり、「豈」は鼓上に羽飾りを樹てた形で軍楽に用いる鼓。凱旋、軍楽に関係する祭典時に軍人、自衛隊員が「凱しむ」と用いるのがよいと思われる。
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