〈ファッションとは、衣服のことではない。それは、ひとつの考え方のことだ。(……)ファッションとは、ものの見方、あるいは、世界の捉え方なのだ。〉
人間が無数にあるように、ファッションというものの見方・考え方もまた無数にある。それは十人十色の観を呈するもので、派手な極彩色のごとき考え方をもつものもあれば、地味な無彩色のような考え方をもつものもある。移りゆく十人十色の一人一人の観(表象)を総合し、平均したものが、ファッションという流行である。ファッションという流行を分析し、次なる流行を予見するのはファッションの科学であろう。本題の「ファッションの哲学」は、ファッションという流行を、一人一人の観の出来るより前の段階の根源的な次元に向けて考えることであろう。
ファッションを単純に衣服とみる人にとって、この哲学は無縁に思われるかもしれん。だが、ファッションに無関心というものがUNIQLOで衣服を購入するにしても、陳列されている商品は流行である。何であれ商品を眺めたりまたは購入するなら、かれはすでにファッションという流行に呑み込まれている。かれはある考え方に〈感染〉しているといっていい。感染からの自己防衛、感染拡大を阻止する社会的責任という意味でも、誰も彼もみなこの哲学に無縁であるとは思われないだろう。
ファッションの哲学は、単に服飾の分野のみならず、流行という感染との付き合い方を、あるいは、社会の波にうまく浚われて個性を浮き立たせる力を養うものでもあるといえる。
ファッションの正解
ファッションの正解を考えると、多分にそれは自分のなかの〈人と違っていたいという「個性化衝動」と、人と同じでいたいという「一様性衝動」と〉をうまく調和するものなのである。つまり自由と平等との相剋的な、相対的でありながら絶対的なものの見方・考え方をもつことである。
そしてまた、自撮り画像を加工するように自己の原型をとどめる限界を見極める営みがファッションの正解でもあろう。ファッションデザイナーの使命は、この限界という枠を粉砕し、全き新しい枠を創造することである。これに加えて、いかなる色にも染まらない一定の普遍性をねらうことは、偉大な芸術家の使命であろう!
令和三年 八月
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