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緩叙法とは何か?緩叙法の効果について

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緩叙法とは何か?緩叙法の効果について

緩叙法とは何か?

 

文章を飾りたてることを修辞技法または美辞麗句(まとめて以下、レトリック)といい、そのうちのひとつに緩叙法かんじょほうという技法がある。直接的な主張をせずに、その逆の意味のことを否定すること。「良い」を「悪くない」といい、危険を「あやうからず」といい、「する」を「しないわけにはいかない」などといって遠まわしに表現すること、直接的な主張を避ける技法、それが緩叙法である。

 


〈麗〉は鹿角一双の象形文字で美辞麗句はおそらく名詞対(山:川)や動詞対(動:静)などの対句を、修辞技法は緩叙法にみられるように文意の強弱や広袤などを指すのであろう。


 

緩叙法の効果

 

ここで、緩叙法の効果というと、どこか現実主義的で実用主義的な響きがあるかもしれない。というのは、ことばがその効用性を出発地に定めるならば、およそあらゆるレトリックは読者を幻惑するまばゆい装飾にすぎないであろうから。(レトリックが内容空疎といわれる所以である)。とはいえ、どうなのだろうか、現代社会に生きるたちはおよそ現実主義的で実用主義的であろうから、緩叙法の哲学といってその用法の心的態度を縷々と述べたてるよりも、その効用性を出発地に定めることで、これを書かんとする意義を先に理解してもらうべきなのではないだろうか。いいかえると、この時代の呼吸をする私はすでに現実主義的であるのであって教養主義的ではない、だからこそいっそう現実主義的な領域の内部から出発し、だんだんに変化するもしくは固執する方法をとらないわけにはいかない・・・・・・・・・・・・のである。

 

1. 感情の奥ゆかしさを表現する(グラデーション効果)

緩叙法の効果のひとつに感情の奥ゆかしさを表現することがある。「それをしないわけにはいかない」をいいかえると「それをしない(という行動)をしない」であり、端的に「それをする」である。なぜこのようにして婉曲えんきょくに表現し、その感情の奥行きを複雑に深めるのであろうか?

考えると、この現実がどこでも徹頭徹尾にいたり「Yes」か「No」かという二分法であっさり割り切れてしまうようなら、私たちは現実をあまりに機械的に営むことになる。それはまた、暗黙の秘め事や利害関係などが丸裸になった、浮き浮きとした希望もなければ失望もない、無感覚で無感情の、没世界、科学的世界に生活することでもある。なんとも人間が機械製品のごとく画一化された世界が思い浮かぶのだけれども、この現実は単純に「Yes」か「No」かで割り切れない、筆舌に尽くしえない神秘的法則がはたらいていると見える。それを緩叙法によって、感情を奥ゆかしく表現し、なめらかに色彩の階調(グラデーション)のように美しく濁すのである。

 

2. 個人ではない全体的意志の表示

「しないわけにはいかない」という発言主体は自分ではない何かに従っているようである。個別の意志によって何かを実行するなら「する」、しかしそう言えないのは、あるいは単に気取った表現なのかもしれないが、自分ではない何かに従っているからであろう。その何かというのが先の神秘的法則であり、この神秘的法則を見る人にとっては自他は同一視され、個人の利害は全体に、より大きな世界に向けられることになる。だから「しないわけにはいかない」という発言には概ね自分というよりは世界を思っての意味が込められている。

 

3. 読み手に決定権を与える

「悪くない」を反対の方の「良い」という意味に安直に解することはできない。「悪くない」は「悪くない」のであり、それ以上でも以下でもない、唯一無二の「悪くない」のである。いったい、これにより作者は何を表現したいのであろうか?

私たちは何かを理解するためには自分でそれを実感し体得しなければならない。理解の範囲を広げるのは私の経験であり、それゆえ男と女とは互いの痛みを理解することはない。それを思うと、作者は意図を押しつけるよりも、読み手の想像でもってその意図を理解してもらいたいのではないだろうか。どこでも力学的な作用がはたらいているかぎりは、押しつけられる側は抵抗することになるので、作者の意図は終にあるがままに理解されることはない。作者のつもりでは「悪くない」を「良い」といいたいのだけれども、それで作者の「良い」という意図を押しつけてしまうと、意図を押しつけられる読み手の側は抵抗せざるをえず、作者に反して意味を解することになる。しかしここで緩叙法を用いることによってーー感情を美しく濁す「グラデーション」と自他の境を超越する「全体的意志の表示」という効果によってーー以心伝心、作者の発言はあるがままに理解されるのではないだろうか。

 

緩叙の字源

 

即時効果を生み出さないひそかな実用主義の態度を教養主義というのなら、その漢字の字源を調べることは教養主義的でありながら実用主義的である。字源を調べるさいには、できるなら実用主義を思わないで、ことばという人間精神の涵養に努めたいものである。

さて、緩叙の字源である。白川静『字通』には

 

【緩】声符はえん。爰にけんかんの声がある。『説文』に字を素に従って「素爰」に作り「しゃくなり」という。素は糸を染めるとき縊ってある手許の部分で、染め残しとなり、余分となるその部分を「素爰」といい、しゃくという。〈訓義〉余分の長いところ、ゆるやか、など。

【叙】旧字は敍に作り、余+ぼく。『説文』に次第するなりと訓し、余声とする。余は把手のある大きな針で、治療に用いるメスの類。これで膿血うみちなどを除去する意。その苦痛を除去し、苦痛をゆるやかにすることを敍という。攴は余を操る意、すべてことの次第を以ってするをいい、叙任・叙述・叙事のように用いる。〈訓義〉のべる、ゆるやかにする、次第に治まる、など。

白川静『字通

とあり、語源をみると、緩叙からは言をたわめるような(グラデーション的な)意味を読みとれる。

 

令和三年 九月


 

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