旅行の目的を大まかに分けると二分できるように思われる。ひとつは「肉体的享楽」を目的とする旅行であり、もうひとつは「精神的愉悦」を目的とする。
これらを具体的にいえば、思考を眠らせた旅行であるのか、あるいは思考を働かせた旅行であるのかである。
思考を眠らせている「肉体的享楽」というのは、旅先で提供される食事やサービス、風景や人情などから快感を与えられるだけである。その人たちの旅行中における発言は「おいしい」や「いい眺め」などの連発であり、その旅行から精神的成長を得ることはほとんどない。
思考を働かせる「精神的愉悦」とは、旅先中のあらゆる出来事から新鮮な感覚を獲得して、その感覚を細緻に分析し、言葉にすることに悦びを感じる。
これは私たちの生の新陳代謝の促進が目的ともいうべき旅行であり、旅行によって思考が活発化され、精神的成長を促進する。
私がここで話題に上げるのは前者を目的とする旅行のもったいなさである。思考の眠っている「肉体的享楽」が目的の旅行とは、労働力を回復するための「再生産」という「残業」にすぎないからだ。
肉体的享楽を目的とすることで、いつまでも、仕事ではない労働という環境から抜け出せなくなるのである。
肉体的享楽の旅行とは「残業」である
「そもそも旅行に目的は必要か?」もちろん必要である。
大多数の人が旅行の目的として思い及ぶところは、気分転換や疲労回復といった「肉体的享楽」の域に留まっている。もし目的を思いつかず、気のおもむくままの旅行であるなら、思考は燃焼されておらず、したがって目的は「肉体的享楽」なのである。
そういう旅行はだれもが経験可能なのであり、魅力の隠された旅行の表層を上滑りするだけで、奥行をついぞ知ることはない。
「おいしい」や「いい眺め」を連発する、気分転換や疲労回復のための「肉体的享楽」の旅行とは、又の名を、後日の労力を蓄えるための「再生産の時間」といい、つまり労働時間の延長であって、これはおそらく世間の暗黙の了解である「残業」だと思われる。
この世間に明るみに出ない「再生産の時間」あるいは「残業」が長ければ、自由な時間は削られて、したがって本日も大衆列車に乗車しなければならないのである。
精神的愉悦の旅行は、無双の旅行となる
思考の働いている「精神的愉悦」の旅行というのは、旅先の風景や旅館の風情、提供される食事やサービス、人情等々、その旅行で経験するあらゆる出来事をみずからの言葉で表現する。
精神的なもの、つまり言葉によって、みずからの言葉を出来事にぶつけ、表層から深層に入りこみ、新たな発見をすることによって、その旅行に奥行が生まれるのである。これによりだれもが経験のできない千差万別の醍醐味を感じられ、精神的成長は得られ、均質化されていない無双の旅行をたのしめる、それが「精神的愉悦」の旅行なのである。
つぎの旅行の目的は何か?
両者の旅行の違いとは、日々の労働に疲れてまた後日の労力を蓄えるための再生産の時間としての旅行であるのか、あるいは、旅行の体験を言語化して無双の旅行を想像する開拓の旅行であるのかーー大衆列車に乗って循環運転をするのか、あるいは下車をして道なき道を切り拓いて進んで行くのかーー「肉体的享楽」か、「精神的愉悦」か、どちらを目的として抱いているかどうかである。
つぎなる旅行の目的が「おいしい」や「いい眺め」を連発する「肉体的享楽」の域を出なければ、労力を蓄えるための再生産を、労働時間の延長という「残業」をしている意識をもつべきである。しからば循環は断ち切れて、自由な時間が生まれるのである。
令和二年 十月
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