1840年にフランスの月刊紙《レヴューデドゥモンド》に出版された『コロンバ』は、プロスペル・メリメ( 1803- 1870)による復讐(ヴァンデッダ)が主題の短編小説。
小説家であり歴史家・考古学者でもあるメリメが、皇帝ナポレオン第一世の故郷として知られるフランスのコルシカ島を舞台として、荒凉たる島の風習を濃やかに描く。
プロスペル・メリメ|『コロンバ』の要約
コルシカ島の出生であるオルソ・デルラ・レビア中尉(オルソ)は、彼の父の非業の死を知って、年少のころより離れていたコルシカ島に帰島する。
偶然イタリアからコルシカ島のアジャチオへ向かう渡船があったため渡船客であり旅行中であるイギリス軍のネヴィル大佐とその娘のリディア嬢の了解を得て、その渡船にオルソは同船する。
一行は島に到着し、オルソは、コルシカ島の風習に色濃く染まる妹のコロンバと再会する。
長らくコルシカを離れていたオルソは、コルシカ島の風習ーー正義の名のもとの〈復讐〉ーーを忘れかけていたが、妹コロンバとの再会を契機にその記憶をつよく引き起こされる。
故郷であるピエトラネーラに帰郷して、父の死場所を巡礼したオルソは、だんだんに父の仇討を果たす決意が固まる。
当初は誤解していたが、父を殺した一家のバリッチニ家(ピエトラネーラの村長のバリッチニ弁護士、息子兄弟のオルランデュチオとヴィンチェンテルロ)に対して、オルソやコロンバを含むデルラ・レビア家に加勢するものが決闘をはじめる。
犬猿の仲であるデルラ・レビア家とバリッチニ家との両家の決闘と同時並行して、荒凉たる島の風習をやわらげるかのごとくオルソとリディア嬢との二人の思いが終盤に実る。
プロスペル・メリメ|『コロンバ』の感想
コルシカ島の風習である〈復讐〉というのは実はたのしい趣味なのだろうか。鹿や猪をしとめる狩猟が趣味として人々に好まれるように、19世期以前のコルシカ島では、退屈を紛らわす趣味として〈復讐〉の趣味が流行していたのではないだろうか。
〈復讐〉を正当化するために、正義という盾を右手に、悪行という剣を左手にもって敵を斬り裂くコルシカ島の風習。それはこの島の荒凉たる風習をやわらげるオルソとリディアとの〈恋愛〉と類似している。
恋愛と復讐
コロンバが村長(バリッチニ弁護士)の偽造手紙を読んで復讐の対象を誤解せずに、みずからの信念を貫いた原因は何か。それは、かなり熱を上げているじぶんの恋人候補に恋人がいると発覚した場合を考えればかんたんに理解できる。
究極的なところまで考えると〈恋愛〉と〈復讐〉の帰結は同じであり対象の抹殺である。別言すれば、〈恋愛〉にせよ〈復讐〉にせよ、両者の究極目的はじぶんの思いどおりに対象を支配することである。
偽造手紙を読んだコロンバが、復讐の対象(ヴァリッチニ家)を変えられず諦められないのは、恋愛のごとく対象への強固な執着があるからなのである。
たほうでは偽造手紙を読んだオルソが復讐の対象をあっさりと誤解したのはコルシカ島の風習に色濃く染まってはいなかったからである。
ちなみにドストエフスキーの美について説明ーーどちらの美の極も同一であることだったかーーは円環の二つの方向を、対象を憎しみのあまり抹殺してやりたいか、愛するあまり抹殺してしまったかという帰結の同一性を示している。
コロンバの印象的場面
本物語の描かれる前年(1839年)にメリメはコルシカ島を訪れて、オルソのモデルとされる人に出会い、決闘(ヴァンデッタ)のために死んだ妹のコロンバの話を聴いたそうである。
現実にコロンバのような人が21世紀の今もあるならば、あるいは島の風習がコルシカ人の血脈のなかで今も静かに躍動しているならば、コルシカ島の奇怪な魅力は、気狂い染みている人々を惑溺せしめる。
女主人公のコロンバの奇怪な魅力が描かれる以下の場面は印象的である。
ーー卑怯者! 女をうつのかい。外国人をうつのかい! それでもコルシカ人か? それでも男かい? うしろからしのび寄って殺すことしかできないやくざ者め、前へ出てこい! さあ、やるならやってごらん。わたしゃ一人だよ。兄さんはここにはいないからね。わたしを殺すがいいよ。お客さんを殺してごらん。おまえたちにはそれがちょうどいいところだ……できないのかい、いくじなしが! こっちの仇討がこわいんだろう。さあ、むこうへ行っておくれ。行って女みたいに泣くがいい。おまえたちにこれ以上血を流せって言わないのをありがたく思うがいいよ。
『コロンバ』グーテンベルク21社 杉捷夫訳
日本式の復讐は、忠義の全うである。
周知のとおり日本でも正義の名における復讐の風習ーー忠義の全うーーは存在し、現代でも日本国民の徳目として血脈に流れている。
おそらく、復讐の風習(復讐を正当化する〈正義〉)というのは、どのような国・民族にせよ文化として文化の亜種として存在する。かかる存在の巧妙な隠蔽工作というのが文化の洗練であるといっていい。
フランス大陸とコルシカ島における当時の関係
1769年にコルシカ島はフランス領の一部となる。『コロンバ』発表の当時(1840年)は、まだフランス大陸の人々はコルシカ島を距離も印象も遠い存在であったと感じていたそうである。
コルシカ島はフランス領の一部ではあるが、島の存在はフランスというよりはイタリアのほうに馴染みがある。当時のフランス大陸の読者としてはコルシカ島が異国風に描かれることに得心したのであろう。
令和二年 六月
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