1900年に発表された『学校のクローディーヌ』(原題:Claudine à l’école)はフランスの女性作家コレットの女学校時代の思いでをつづった学園小説である。本作はコレットの夫ウィリーの著名により当初発表されたが、これはコレットの処女作であり全四作あるクローディーヌものの第一作である。
成績優等生のしかし素行不良な十五歳のクローディーヌ嬢が、学校でおこる出来事に対して奔放にふる舞う姿が描かれる。
コレット|『学校のクローディーヌ』の要約
モンティニイという町の数少ない中産階級の家庭に産まれたクローディーヌ。彼女の頭脳は明晰しかし素行は不良である。
十五歳のクローディーヌは、モンティニイにある新成の学校に通い、学校生活のいろいろな出来事ーーふつうの授業、クラスの新任の女史とその助教師の同性愛の目撃、七月の資格試験、大臣が臨席する学校の落成式などーーをもちまえの頭脳と素行によって知的奔放にすごしてゆく。
コレット|『学校のクローディーヌ』の感想
コレットの円熟期に描かれた『牝猫』(1933年)や『青い麦』(1922年)と比べれば、本作『学校のクローディーヌ』(1900年)は、コレットの筆致が精彩に輝いている作品ではない。
学園生活の描写は縷々として冗長ではあるが、それは必ずしも駄文・乱文を意味するのではなく、むしろ青春の多情多感な心理のときめきをありのままにこまやかに描くという点では巧みな写実であるといえる。
著者のコレット本人は本作『学校のクローディーヌ』に対して後年には厳しい評価を下している。その評価は彼女の自著『わたしの修行時代』(ちくま文庫)においてみることができる。
「クローディーヌ」ものすべてについて、わたしはきびしい判断を下している。恥も外聞もなく、子供っぽいふり、お茶目なふりをしているだけなのだ。
たしかに若さが炸裂しているけれど、それは技法が幼いために、かえってきわだってみえるのかもしれない。こうした昔の著作を開いてみると、他人の要求に応えてしまう従順さとか、外からの示唆に対する従順さとか、すでに努力を回避することを知っている小器用さとかが目について、どうも不愉快な気分になる。
読者を多分に前提された小説は、文体に加えて筆者の性格の軟弱さが反映されるのである。
簡潔さをきらう、いや明晰さまで避けようとするあの散文。あちこちに音の戯れや故意の言い落としがあって、専門用語や駄洒落が詰めこまれ、語源に関する知識をひけらかし、古のフランス語、俗語、古代の死滅した外国語から現在の外国語までをちりばめた、渦巻きのようなあの文章。
わたしに言わせれば、他人をおどろかせたいという願望が透けてみえるああした文章は、それを書く人間の性格を露呈させている。
「自己顕示欲」が露呈した小説は、小説の完成度をそこなうのみならず、自己の「克己心」の弱さを露呈することにもつながるのである。
『学校のクローディーヌ』はコレットの女学校時代の思いでをつづった自伝的小説であるため、20世紀のフランスの文壇の女王といわれる彼女の人となりが窺える貴重な書として価値がある。コレット文学に興味のあるものか19世紀後半のフランスの一学園生活に興味があるものならば一読に値する。
令和二年 六月
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