理解への欲求は人性の常である。いったい人が闇雲に惹かれてゆく旅も、終えてみれば旅の序である。旅の苦労の果てには爽快な生命力を認めるが、しかし相変わらずの空の下、またも旅に誘われてしまう。
さて、美は、常理を知らない、夢幻多様な奥妙なる現象である。また、美は、月夜の渦潮の高らかに舞う白波、逆巻く炎にさかゆ青山のごとく、この世ならぬ何処からか普く人を惹きつける。
もし、この世に駆ける生命が、まるで魔術を解くかのように、はるか何処かに雲消霧散するような、ふしぎな脱力を認めるとすれば、それはおそらく己が美の理想の邂逅する瞬間の、異次元的で異様なる状態の示現、美の沈黙であろう。これはまた旅の有終の美でもあろう。
「美」を、そして「美の沈黙」という体験をいかにして表現するか。ここでは「優美」という語を起点にして、美という得体の知れぬものを白日の下に明らかにしてみたい。
優美の意味
優美とは、何か。辞書によると、優美とは「上品で美しいこと(広辞苑)」、「派手でない、おだやかな美しさのあること(大辞林)」、「しとやかで美しいこと、また、そのさま(大辞泉)」である。すなわち、卑しくなく、動作のおちついて、たしなみのある、美しいことを〈優美〉という。
とはいえ辞書に書いてある定義は、殊にそれが抽象にすぎる語であると、優美を理解するための手引となるだけであり、優美の本質にふれることなく言葉を換えて、別の見方を提供するだけである。
優美という語は、辞書という名が辞書という物を斥すのとは違って、その名と実体との結びつきのあいまいなものである。〈優美〉という名によって表現される動作・状態を理解するには、それを具体的にイメージするのみならず、日常生活において知らずのうちに社会の慣習が身につくように体認を必要とする。
ところで語(文字)は神話と歴史との接点にあり、神意または神意にもとづく王の行為を形態化・現在化するために生まれた(それによって王の民衆に対する支配者の根拠が成就された)という。文字の成立する背景には古人の行為・体験があるわけである。ここから優美の字源・語源を探ることは、あたかも過去に制作された動画を視聴するように、優美なるものを把握するのに適切であると言える。
優の字源・語源
さて、優の字源である。
白川説の字源によると、〈優〉は《声符は憂。憂は喪に服して愁える人の形。喪に服してかなしむ人の姿を優といい、またその所作をまねするものを優》という。また〈憂〉の項をみると、憂は会意字である。「頁」(下部の八なし)は儀礼の際の人の姿、「夊」はたちもとおる(あちこち歩きまわる)形、それに「心」を加えると憂である。
ところで「やさしい」という語には一般に〈優〉の字をあてる。『字訓』(国字としての漢字に訓義・和語が定着する過程に関する辞書)によると、この〈優〉の字はもと〈吝〉である。詳しくみると、《〈吝〉は「人の見る目が恥ずかしく痩せるような思いをする状態」を、また「相手がそのような気づかいをするようすを、殊勝で立派だと思う感情」》をいい、つづいて《「吝し」から「優し」に移行する語義の繊細な感覚は、漢字ではとらえがたいところがあった》らしく、「優しい」は《自己の感情を相手に投影し、相手の立場をいわば客体化しながら自己に向かわせるという婉曲な語法から、国語の語義は複雑なニュアンスをもつものとなる》という。
およそ「優しい」は神経の痩せるような思いをする状態を披露して自分に関心を集める、ということである。
とまれ、この〈優〉という字が「喪に服して愁える」「かなしむ」「痩せるような思いをする」という意味をその背景にもつというのは容易に看過されてはならないことである。
美の字源
優美の〈美〉は、『字統』によると、象形であり、羊の全形である。
下部の大は、羊が子を生むときのさまを「羍」というときの大と同じく、羊の後脚をも含む下体の形である。『説文』に「甘きなり」と訓し、「羊に從ひ、大に從ふ。羊は六畜(六種類の家畜)に在りて、主として膳に給するものなり。美は善と同意なり」とあり、羊肉の甘美なる意とする。…(中略)…善は羊神判をいう字で、神意にかなうこと、義は犠牲として供える羊の完全で正しいことをいう。完美なること、美は神に供薦する羊の美しいことをいう。
これに『字通』の説明を補足すると、
美とは犠牲としての羊牲をほめる語である。善は羊神判における勝利者を善しとする意。…(中略)…これらはすべて神事に関していうものであり、美も日常食膳のことをいうものではない。
という。
論語では「美は善を尽くすことによって完成される」という。
思うに、「善」は、自然の有機性の見方からして、神意によって勝利者をきめて闘争を鎮静化することに、「美」は、お互いの闘争を超えて生命を愛することにあろう。闘争(対立)が絶対に避けられない場合、せめてのこと、犠牲として供える羊を美しくして、それで神意を(天命を)待ったのであろう。
この字源(語源)の結論として、優美とは「憂い」「かなしみ」「痩せるような思い」をふくむ状態、それがすべて神意にかなうときに見られる美である。これは漢字文化圏においてのみ発生した独特の意味というのではなく、ほかの文化圏でも同様である。
※羊は羊神判(ようしんぱん)に用いる神羊。獬廌とよばれる羊に似た神聖な獣。犠牲として供薦する羊とは違う。羊はまた祥・不祥の観念と密接な関係をもつものであった。獄訟のことに当たっては、当事者の双方が神に誓った上で、獬廌の前で審判を受け、賛否を決する。(字統より)
優美、Grace
たとえば、およそ優美にあたる「Grace」という概念は、『美学辞典』によると、もともと美の三美神(権勢・知恵・美貌または愛・慎み・美)をあらわす語である。Grace(優美)は、
古来(ギリシャ語karis、ラテン語 venustas/gratia)美のなかのわれわれを捉える魅力を指してきた。そして、ルネサンス期以後、主として人の魅力を指して用いられるヨーロッパに広まった「いわく言いがたい魅力(イタリア語 non-so-che´、フランス語 le je-ne-sais-quoi)」の実質は、優美と一致している。十八世紀初頭にポープが、優美を「技術を超えた幸運」で「心情に直接訴えかける力」として規定してが、美との対比に関して有名なのはホガースの書いた画論であり、美の線としての直線に対して、蛇行線が優美の線と呼ばれた
という。
現代の英語辞典(Cambridge dictionary)で「Grace」を調べると、「動作」「礼儀」「承認」「祈祷」「時間」の項目に分けられており、「承認」と「祈祷」との項目では神意に関する説明がなされている。日本の辞書とは違い、英語辞典の優美に神がかりの意があるのは宗教的影響のみられるところであるが、しかし元来、優美というのは「上品なこと」や「派手でなく、おだやかなこと」といって容易に片づけられる代物ではなく、その字源をみても特異な現象なのである。
ところでポープのいう「技術を超えた幸運」から来る「いわく言いがたい魅力」を優美とすれば、技術を超えることなくして優美を表現することはできないだろう。すなわち優美を表現するには、動作であれ画力であれ技術の「完全性」を必要とする。
哲学者の優美考
ちょうど、ドイツの哲学者が優美を次のとおり説明している。
……優美さとは、意志を客観化する運動や姿勢を介してあらゆる意思行為が完全にきちんとふさわしく表現されることにほかならない。運動や姿勢は関係がなければ成り立たないのであるから、ヴィンケルマンが「優美とは動作を行う人の動作に対する特有の関係である」と言っているのは、まことに正しく、当を得た表現であると思う。優美さとは、今述べたことから言えば、あらゆる運動や姿勢がこのうえなく軽快、適切、快適におこなわれて、かくてその目的や意志行為にぴったりと適応した表現になっていて、そこには目的に反した無意味な動きや歪んだ姿勢として現われるような余計なものはなにひとつなく、ぎこちない無器用さとして現われるような欠陥もなにひとつないというところにあるのである。
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
※「意志を客観化する」というのは、一定の段階における主体の客体化、私心私欲を離れた自然の振舞というほどの意味。
これを要約すると、優美は「あらゆる運動や姿勢がこのうえなく軽快、適切、快適におこなわれ」て、「あらゆる意志行為が完全にきちんとふさわしく表現される」ところにある。さらにこれを仮定すると、優美の表現には「憂」が、またそれが歪んだ姿勢としてあらわれないのだから「剛直性」(剛毅)も必要である。
この後にショーペンハウアーが述べるように、人の感情の関与しない動作に優美は成り立たないので比喩を除いては鳥獣草木などを優美というのは用語を違えている。
憂の種類 雄々しい憂と惰弱な憂と
優美の「憂」は、カントによると、道徳的理念にその根拠をもつ限り雄々しい情緒に属し、単なる同情に基づき、またかかるものとして愛好されるならば惰弱な情緒に属するという。そして前者の場合だけが崇高な心的状態であるともいう。
めそめそと遣る瀬なげに見せかける後悔や、あなたまかせのまったく受動的な心構え、一定不変の原則に従うことなく他人の身の上を憂える同情的な苦などは、(カントに言わせると)憂といえども惰弱なものなのである。
もし優美の表現における〈憂〉が弱いものであれば、それを見る者を失意に沈めて、そこに美は、少なくとも優美は表現されることはないであろう。というのは力なき美は理性を憎悪するものだし、美は、普遍的にすべての人に快いところのものであり、人を惹きつけるからである。したがって、優美の表現における憂というのは己の道徳的理念に基づく雄々しいものでなければならず、また容易にそれと看て取ることのできる憂は雄々しいものではないので、美を体認するにしても見る者は、一層深い憂を心得ていなければならないわけである。
優美と道徳性と
優美を道徳的なものに関係させるとーー優美の効用性を人間社会を安定させるために用いるとーー優美を定義として概念化し、優美のみならずあらゆる美を見失わせる運びとなる。というのも美は、殊に自然美は、これこれの概念に適うから美であるという類のものでは毛頭なく、ものごとをその用途から解放することで、完全に自由な状態において現象するところのものだからである。そこでは美を公式化する概念、また道徳、美徳、正義、義務といった観念を持ちこんではならず、少なくとも忘れられているべきなのである。
18世紀イギリスの画家ホガースが『美の解析』で、その優美論から道徳的理念を除いているのは注目される。優美の表現には道徳的理念が完備されるべきであるが、それを念頭にかすめると完全に自由な動作を妨げて優美を表現することはできない。ために、ホガースは優美を「蛇状曲線(serpentine line)」という蛇のようなくねくねした線を中心にして実践的に説明したかと思われる。
優美に必要な原理の実践的説明
そのホガースによると、優美は、ダンスや乗馬などの運動の描く軌跡を目で追って、その目の想像上の光線が蛇状曲線(S字)を描き、それが然るべき原理を、すなわち合目的性、多様性、複雑性、単一性、単純性、規則性、対称性、そして質量を備えている場合にあらわれるのである。
たとえばダンスを祭事で披露するとする。ダンサーは黒い喪服を身につけるよりも明るいドレスを身につけて舞い踊るほうが軽快で「適切(合目的)」である。またダンサーの衣装が貝殻や花、蝶の羽に描かれる模様のようであると、その色・形の「多様性」は、見る者の目を奔放な追跡へと導き、他方、追跡することに疲れた目は、衣装の柄の「単一性・規則性」を喜ぶ。またその衣装やダンスによる運動の軌跡は、その幾何学的図形の「対称性」に欠点があると、見る者はそれを補完(発見)するように運動するので喜ぶ。
ホガースは、これらの原理が時に応じて相互に修正したり抑制したりしながら、協力して美を創り出すという。
対称性についてはカントも《およそ硬直した規則正しい形態(数学的な規則正しさに近似する物)には、本来趣味に反するところがある。かかる物の観照は、長く心を楽しませるものではない》といっている。
さりげなさ
また、ホガースの優美論は【社交の問題圏において「わざとらしさ」を避けて「さりげなさ」を感じさせる身体所作に優美をみ】る思考が反映しているという。これはおそらく「芸術は自然を模倣する」という格言に由来するものであろう。
さりげなさ(さりげない仕草)は他者の意識の活動にふれぬよう振る舞う洗練された所作であり、これが好意的に受け容れられると優美の実質である「いわく言いがたい魅力」に相等しくなる。
ここで「さりげなさ」とは反対の「わざとらしさ」を考えてみると、わざとらしさは自分に関心を集めるための思惑の所作であり、道徳的理念に基づく憂であるとは言いがたい。他方の「さりげなさ」は自分に関心を集めるよりも自尊心を満たすことを旨とした道徳的な所作である。また意外であるということは発見の喜びをもたらす。ここから「わざとらしさ」よりも「さりげない仕草」に優美はあらわれるということができる。
以上、ホガースの優美論をみてきたが、それは道徳的理念を退けて実践的(非観念論的)な原理に沿って展開されるものであった。表現に関する観念的性質を除いて優美に導くのである。しかし優美なる動作が道徳性(憂)に欠ける場合、優艶または媚態となり、他方、道徳性の強調される場合、優雅となるも優美たりえない、ということは次のことから明らかにされる。
優艶 優雅 幽然の美
優美を表現するには完全性を必要とするが、それを備えない場合、表現は「優艶」や「優雅」となることが多い。
「優艶」は、その行状振舞により他者の情念(所有欲)を刺激する、とりわけ性的に魅惑的なものである。だから優艶における憂は、他者の同情心に訴えて愛好されるものであり、惰弱なものである。また優艶の表現に憂のまったく顧みられない場合、それは単に艶であるか媚態であるかである。
これに対して、「優雅」は、道徳的理念または栄達心に基づき自尊心を鼓舞するものである。優美の表現は道徳的に見ると優雅的である。優雅から対他者性が除かれると(人間離れすると)能の美のような美となる。(筆者はこれを「幽然の美」とよんでいるが、それは憂が超克された人間ならざる状態の美しさであり、上村松園《草小町草子》に見ることができる)
主として、「優艶」はなよやかな動きに、「優雅」はしなやかな動きに由来する。生まれつきの男女の肉体をみても、優艶は女性的なものであり、優雅は男性的なものである。それだから個体としてのその目的や意志行為を考えてみても、優美は一般に、女性にあって優艶的で、男性にあって優雅的であると思われる。
優美
これまで述べたことを要すると、次のとおりである。
優美は、優艶と優雅とを相剋するような表現、もしくは優艶にも優雅にもよらない表現にある。
ある表現が優艶に偏ると、その道徳的理念の弱さは見る者を失意に沈め、またその動きのなよやかさは欲情を刺激して美的観照の態度を揺るがせる。また優雅に偏ると、その道徳的理念に基づく雄々しさは果てに能の美のようになるであろうし、その動きのしなやかさは優美に必要な軽快さを損ねてしまう。
これら優艶と優雅とを相剋するところに優美があるとすると、優美を体認・体現するには憂の情緒をはじめ、優婉・優雅という両性質に通暁することが必要であると思われる。というのは普通人は、己の理解力の範囲においてのみその価値を認めるからであり、また優美たるには、あらゆる意思行為は「完全性」を備えて表現されなければならないからである。「完全性」については優美の字源・技術を超えた幸運・ショーペンハウアーの件でみてきた。たとえ優美が優艶と優雅とを相剋するところにないとしても、美は優艶や優雅という概念で容易に言い表せる代物ではなく、したがってどちらにもよらぬ美は、これらを熟知することを必要とするのである。
優美ならざる作品
以上の見解はいくつかの絵が補足してくれる。
たとえばフェルメール《真珠の耳飾りの少女》、ミュシャの諸々の作品、上村松園《新蛍》など、いくつかホガースの分類に従ってみれば優美の原理を備えているものの、それが優美ならざる作品で別の美となっているのは次の事があるからと思われる。
《真珠の耳飾りの少女》は、そもそも少女に道徳的理念に基づく雄々しい憂はふさわしくない。同じ理由から喜多川歌麿《ビードロを吹く娘》も「いわく言いがたい魅力」を有するも優美ではない。
ミュシャの作品は繊細華麗な技巧が光り安定した構図であるものの、さりげなく思われず装飾が派手である。花や冠などの装飾品は色価で軽快さをもたらすものの他者性の強く意識された(憂の字に値しない)雅やかさに思われ、また踏み込んでいえば異性の視線を逃れる術を知らないでいる。
《新蛍》は夜に舞う蛍に惹かれる女性、その口紅と赤帯とは生命力や人間性を象徴するようである。その微妙な真顔とその身体、その衣服、その右手の指のしなるさまは、風にゆらぐ草木とその青々とした色とに照応して、一見して優美に思われるが、じっくり鑑賞すると技巧的であり、また女の抜衣紋から覗かれる肌、殊にその白さは艶である。
優美な作品
これを優美というに何人も異存はなかろう作品は上村松園《序の舞》である。もっとも、これを「優美」というのはほかに名づけようがないからであり、美の観照を省みて便宜的に優美とよんでいる。ラファエロやミケランジェロの描くところの女性も見る者によっては優美なのかもしれないが、しかし文化の相違が影響されているのか、ここでは《序の舞》を。
《序の舞》については松園自身『青眉抄』で次のように語る。
この絵は、私の理想の女性の最高のものと言つていゝ、自分でも気に入つてゐる『女性の姿』であります。
この絵は現代上流家庭の令嬢風俗を描いた作品ですが、仕舞ひのなかでも序の舞はごく静かで上品な気分のするものでありますから、そこをねらつて優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。
序の舞は、一つの位をもつた舞でありまして、私は型の上から二段おろしを選んで描きました。
何ものにも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志を、この絵に表現したかつたのです。幾分古典的で優美で端然とした心もちを、私は出し得たと思つてゐます。
上村松園『青眉抄』
※序の舞は能の舞の一楽章の名。序の舞、破の舞、急の舞とあるなかで最も動きが遅く静かな舞。
この言葉は当の作品がその最高の説得力をもって語っている。優美とは何か、この一枚の絵で理解される筈である。
おわりに
優美について記事を書くに至ったのは次の事情からである。
これは私の夢であったかもしれない、《序の舞》を前にした私は、なめらかな女性で、所有したいと云う思いに駆られることはないものの、瞬間うっとりとして、ただ「ああ、嗚呼!」と、言葉を継げない身悶えするような感覚に見舞われた。いったいなぜ、かくも横溢する言葉がたちどころになくなってしまったのか、その沈黙の現象をふしぎに思った私は、かかるときに己が美の理想は同一性との邂逅によって衝撃的な沈黙を生んだのではあるまいかということを考えたーーそれがこの記事を書くに至った経緯である。
優美というのは内容空虚な言葉であれば口を開けば出て来る。しかし優美を体認すること、否、優美を体認するのみならず、美の沈黙を体験することは、けっして単に受動的であるのみでは得られず、見る者が対象と同等たる境地にいなければならない。そしてかかるときには、「優美」という言葉は、まるで金縛りにでもあったかのように言えないのである。
美の理想の旅の果てに己の生命力がどこか別世界に雲消霧散するとすれば、それこそは美の理想の邂逅という希望ではないだろうか。
令和四年 六月
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