『シェリ』の続編である本作『シェリの最後』(原題:La Fin deChéri, 発表:1926年)は、『シェリ』の執筆時(1920年)には予定されていなかった。
岩波文庫の解説によれば、著者のコレット自身の実体験が反映されており、シェリのモデルは二人目の夫の先妻との間に生まれた甥のベルトランと、レアのモデルは著者のコレット自身とされている。
第一次世界大戦の戦禍をくぐり抜けた人々の変わりゆく様子と、ひとり孤立した人(シェリ)の心境の変遷が描かれる。
コレット|『シェリの最後』の要約
そのころ四十九歳の中年美女レアと決別した二十五歳の野獣染みた美男子シェリは、ブローニュで若妻のエドメや母のマダム・プルーと生活することになった。
第一次世界大戦が勃発し、シェリとエドメとの結婚から五年を超える歳月が過ぎ去る。エドメを含めシェリの親類・友人らは逞しく変わりゆき、物事や人間相手に何もせずにいた三十歳のシェリは孤立する。
かつての恋人レアの新居(アパルトマン)にシェリは赴くが、そこで出会ったレアに対して、もうシェリは満足できなかった。エドメとの結婚生活もデスモンやラ・コピーヌらの友人付き合いも満足できるものではない。
だれもが変わりゆき、ひとり孤立するシェリ。シェリの最後は、彼の人生をみずからの手で清算することであった。
コレット|『シェリの最後』の感想
戦争はいったい何を変えるのだろうか。哲学者のカントは『判断力批判』のなかで長らくの平和は人類の衰退をもたらすと、小説家のオーウェルは『一九八四年』のなかの試論で戦争は平和なりと説いている。
どうしてシェリは四年間、かつての恋人のレアを忘れていたのだろうか。シェリの前で母シャルロット(マダム・プルー)がレアの話題を散々とり上げていたにも関わらず。
考えられることは、野獣染みた性格のシェリが、第一次世界大戦の渦中のただなかでただひとり平和な貴族的な生活を送り、野獣染みた性格が脱色したからだろうか。あるいは世界大戦が人間の本性を曝け出し、人々は実は野獣であったことが判明し、特別であったシェリが普通であることを覚知したからであろうか。
「純粋な野獣」であったシェリから「純粋」をとり除けば、そこには世間一般の普通の人間(野獣)が存在しているだけだ。
何人見たかしら、あんたと同類の男の子……
シェリがレアに出会って告げられた〈あなたは普通〉という宣告。
初読の感想は、シェリの野獣染みた性格が失われていると思ったのだが、そうではなく、これは文学的方法であり、世間一般の普通の人間がシェリと肩を並べて、際立ったシェリの性格を平凡に格下げしている装飾なのであった。
ここまで上述したことは、レアのいう通り、すべて胃の腑の問題であり、考えすぎであるにすぎないのかもしれない。
ところでどうしてシェリは世間一般の普通の人間が野獣(ごろつき)であると思い知ったのだろうか。それはたぶんシェリが戦争に巻き込まれない超越的な平和の立脚地から物事の成行を見下ろせたからではないだろうか。
つまるところ恋愛にせよ戦争にせよ、ある物事の渦中にあれば物事の本質を見失うのであり、みずからを客観視できないのである。恋愛に夢中になれば、人目を憚らず、いやらしい行為をいたるところで発奮する人々は往々いる。
前作の『シェリ』では、レアとの恋愛に優位にあり、尚且つ、レアを母のようにみなしていたシェリであった。しかし、波乱の五年を超える歳月を経て到達した『シェリの最後』では、シェリはレアとの恋愛に敗北を喫して、母でさえも他人であることを考えこむようになる。
これがコレットの伝える恋愛心理の真髄であるのだろう。
令和二年 六月
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