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コレット|『青い麦』の要約と感想

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1922年に発表された『青い麦』(原題 : Le Blé en herbe)は、フランスの女性作家シドニー=ガブリエル・コレット(1873 – 1954)による小説である。

肉体の交わりを目的とした恋愛経験の豊富な人では理解できない純愛小説。とくに現代のわがままなキレやすい世代の男性にとっては難解であり、読みながら悶えるような小説。

はじめてフランスで、少なくともブルジョア階級以上の若い男女の恋を描いたとされる『青い麦』は、青春恋愛小説の傑作である。

 

コレット|『青い麦』の要約

青い麦の舞台を連想させる

 

ブルターニュの海辺で毎年一緒に夏休みを過ごすフィリップ(フィル、16歳)とヴァンカ(15歳)。十五年間、二人は幼なじみの間柄であり異性として意識することはなかった。

 

しかし今年のブルターニュの夏休みは、二人の意識を変化させて、幼なじみの間柄、将来、恋愛、肉体の愛についての人生の宿題を二人に与える。

 

肉体の愛の交わりが二人の純愛を永遠に抹消するという今一歩の恐怖と、意識せずとも刻一刻と過ぎ去り消える青春ーーその焦燥とが、フィルとヴァンカの関係をひどく煩わせる。

 

二人の関係をさらにこじらせるかのようにブルターニュの海辺に美しく豊満な魔女のような女性マダム・ダルレイがフィルの前に現れる。彼女の巧妙な誘惑に唆されたフィルは肉体の交わりをはじめて経験する。それを知ったヴァンカは苦しむがフィルを赦す。

 

夏休みの終盤には人生の宿題に対するフィルの答案がさとりめいて示される。

 

コレット|『青い麦』の感想

 

『牝猫』(グーテンベルク21)を読んでコレットに一目惚れして入った本作『青い麦』(光文社)は若い男女の恋を描く青春恋愛小説の傑作であると私には思われた。

 

『青い麦』の翻訳版はいろいろな出版社から発売されており、ほかの翻訳版はあまり知らないけれど、光文社の河野真理子氏による翻訳版が一等優れているのではないかと思う。

 

著者のコレットは人間の多情多感な心理をうまくとらえる才能に長けており、それが彼女の文体の特色であり、読者の感覚器官を総動員させて、物語に没入させる。

 

若い男女の恋というのは、肉欲の交わりに絶対的な価値を置いており、それに到達するまでにはどんなにささいな体裁にかかわる出来事にも多情多感な心理がときめく。

 

そういう若い男女の恋を描くにはコレットのような五感の活動をうまくとらえて描写することのできる作家でなければ、ただでさえ自己主張のけばけばしい青春の恋愛が、自分勝手で平凡な恋愛に成り下がってしまい、要するに青春の恋愛をうまく描けないのである。

 

青春の恋愛とは何か?

 

この世の中に存在しない〈純愛〉を、まだ知らぬ若者男女にとってのふつうの恋愛、それが青春の恋愛である。肉体の交わり、征服と服従、そのほかあらゆる悪行が度外視された若者男女だけに赦された青春世界の恋愛。

 

本作『青い麦』は、その純愛の正体を知ってしまう少年フィルと少女ヴァンカの、青春から白秋へと移りゆく苦痛に耐え忍ばねばならない残酷な過渡期を繊細に描いている。

 

言うまでもなく、我々大人にとっては〈純愛〉という寝ぼけた恋愛は赦されることではない。大人の恋愛というのは、醜く、汚らわしく、強引で、強欲で、異性を一途にいとめる努力をみせず、わずかな可能性にふいふいと喰らいついては哀れにも失敗する、無残なものであって、表面的な肉体の交わりに満足終始するものなのである。

 

「青春の純愛」と「大人の恋愛」とのみごとな対比。マダム・ダルレイの存在

 

フィルとヴァンカの関係をさらにこじらせるようにブルターニュの海辺には白いドレスを身にまとったマダム・ダルレイが登場する。

 

〈純愛〉とは無縁の、大人の恋愛のお手本を示すかのようにマダム・ダルレイは奇妙な誘惑をフィルに臭わせる。

 

 

「もしいつか、棘のある花束でオレンジエードのお返しをしに来るのではなくて、別の理由でここに来るまでは……」

 

 

 

マダム・ダルレイが出会ったのは、喜んで従い、思いどおりにできる〈犠牲者〉ではなく、彼女に幻惑されかけてはいても、用心深い〈敵対者〉だった。喉はかわき、すがるように手を差し出してはいても、敗北者の姿はしていない〈物乞い〉だった。

 

 

マダム・ダルレイはじぶんの檻に捕らえられた身動きのとれない無抵抗な男にはあきあきして興味を失くす。しかしフィルの抵抗ーー彼女の誘惑の檻からもがきあがき抜け出んとするその抵抗がマダム・ダルレイの官能をいじわるに触発し、フィルの生の諸力をじんわりと吸いとる魔力を助長する。

 

男性にとっての初体験は、これまで神秘化された女性の存在価値を下落せしめる。そのあとの男性の女性に対する恋愛は、精神的なものはすべてはぎとられ肉体的快楽を目的としたものにとって代わる。幸いにもフィルはそうではなかったようだが。

 

 

若い男性というものは、はてしない夢想に満ちた長く狂おしい恋を、葛藤しながらも肉体の快楽と取りかえてしまうと、それ以降は夢が限定されてしまうのがしばしばだが、フィリップは幸いにもそうではなかったのだ。

 

 

マダム・ダルレイによって成熟させられたフィルは、同時に青春の恋愛と決別させられることをしいられた。

 

 

でも、ぼくに返してほしい、時の流れやあの焦り、待ち遠しさ、好奇心を……そうでなきゃ不公平だ……不公平だ……あのひとが恨めしい……

 

 

フィルの「かわいいヴァンカ」というため息まじりのつぶやきは、純愛の終結を意味する

 

フィルとマダム・ダルレイとの逢瀬がヴァンカに知れて、二人の正念場を迎えるさいに「かわいいヴァンカ」とフィルがため息まじりに以下のことばをもらす。

 

 

彼がため息まじりにふと「かわいいヴァンカ……」とつぶやいたのは、疲れていたから、そしていい天気で、夕刻の景色や海の香りや物悲しさにつつまれたからだったのだ。……

最も幼いころからフィリップのなかにあり、そのくちびるで最初に発したことばが、新たな苦悩のためによみがえったのだった。

 

 

「かわいい」の条件は大まかにいうと二つある。

ひとつめは「親和」であり、ヴァンカの存在がフィルのなかにどれほどあるか(親しみがあるか)。

ふたつめは「支配(征服)」であり、ヴァンカがフィルに屈服したかどうか。

 

つまり、フィルが「かわいいヴァンカ」ということは、じぶんには恋愛の勝利を、ヴァンカには恋愛の敗北を宣告したのである。

 

「たかが恋愛の勝敗じゃないか……」というのは頓馬な吐露なのであって、恋愛というのは勝利と敗北が決定された瞬間から退屈なものに成り下がり、やがて来る倦怠を知らないもののせりふなのである。

 

こと恋愛に関しては、若い男女(とくに女性)は、どんなにささいな出来事に対しても多情多感な心理がときめいてしまうのである。

 

令和二年 六月

 

 

 

 

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