ふくよかな胸をひけらかしたり、抜けるように白い美脚をみせたりする女性のファッションは、欲望に取り憑かれた男性には効果抜群なのだが、どうも訓練された知性には響かないようである。というのは知性の本質は〈理想の追求〉であって、異性をみるたびに分けられた自分の肉体の片割れを夢想することだからである。男と女という二人の肉体は完全に一致することはない。したがって残念なファッションとは、胸なり脚なり首すじなどと肌を明らかに露出すればするほどそのぶんだけ知的な人たちの夢を覚まし幻滅させてしまうことになるものである。
先日、ココ・シャネルのドキュメンタリー映画を視聴していたところ、そのシャネルが「想像するほうが刺激的よ」と言うシーンがあった。これは知性の本質を(自分の肉体の片割れを夢想することを)踏まえた発言であるといえる。
まだ多情多感な青年は女性の水着に燃えるような感情をいだく。しかし成長して一皮むけた大人は、これに酔わず、むしろ醒めるのである。だからもう子どもでない、大人の女性のファッションは、男性であれ女性であれ知性を楽しませるものでなければならない。
ファッションは知性に想像の糧を与えること
街を歩きながら女性を観察すると、最近とくに目に止まったものとして、腰まわりに短いファスナーが垂れているロングスカートがあった。大人の女性のファッションとして、これは知性に想像の糧を与え、それでありながら性的興奮を与えずむしろ抑制し、しかしそそられるものだと思った。
ところで知性に想像の糧を与える衣装に「コスプレ」がある。けれどもこれは知性の想像力を限定してしまうものである。というのも「コスプレ」は他者の想像を模倣することにほかならず、無限に広がる夢を、一つの狭い空間に閉ざすことになるからである。しかも(微々たる効果とはいえ)知性に積極的に訴える表現は媚態であるから、そういう女性の劣位を承認するみっともない態度で接すると、多情多感な青年を釣ることはできても、成長した大人には逃げられることになる。
また、知性に想像の糧を与えるには誰もがもっている「現代のファッションの基準」に合うものでなければならない。たとえば戦前の普段着であった和服は、現代のファッションの基準に合うものではなく基準からかけ離れている異質なものとなっている(街で和服を着ている人をみかけたら違和感がある)。現代のファッションの基準は洋服だから、少なくとも現代の知性に振り向いてもらうためには洋服にちかい服装(すなわち平均または平凡)でなければならないのである。
令和三年 八月
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