《仕事であれ、男女の間柄であれ、混り気のない没頭した一途な姿を見たいと思う。私はそういうものを身近に見て、素直に死にたいと思う。》
『老妓抄』の一節より
豊富な人生経験を背景にもつ本名平出園子こと老妓は、養女のみち子と電気器具商の日雇人の柚木とともに生活をしている。するどい感覚と深い理解力、包容力をもった老妓は、柚木の日々こぼす不平や不安な気持をやわらかく受け止め、柚木を望ましい方向にしむける。老妓の日常生活を軸として、何気ないような内容の話が、彼女のまわりのものを養成してゆく。
岡本かの子|『老妓抄』の解説
岡本かの子の『老妓抄』と聞いて思い浮かぶのは物語を締めくくる以下の句であろう。
年々にわが悲しみは深くして
いよよ華やぐいのちなりけり
かの句は物語全体を象徴する句であり、『老妓抄』ならびに老妓の意志を解釈するにあたって理解が必要である。
まず〈いのち〉とはなにか?それはふつうの意味の生命ではないだろう。
岡本かの子の短編小説『家霊』のキーワードとして触れられているとおり、〈いのち〉とは、宿命に忍従して救いを信ずればやって来るなにかであり、その「なにか」というのが〈いのち〉の核心である。
『老妓抄』の文脈に沿っていえば、〈いのち〉とは、ついに老妓が見果てぬ夢として年々にすぎゆく〈純粋さ〉である。信ずればやって来る「なにか」とは、〈純粋さ〉を託した、これから成長してゆく〈一途〉な柚木の姿をみながら死ぬこと、を示している。
老妓はなにが〈悲しい〉のだろうか。年々に深くなる悲しさ、それは〈純粋さ〉をもち得なかった老妓みずからが生きることに対してであろう。つまり拭い去れない懺悔の念である。
いかなる意志による行為とても人間はみずからに利を企てる。それは〈純粋〉とはかけ離れた私利であり、狡智の活動であり、不純である。〈純粋〉を〈純粋〉として維持するには、終末を先取りして決定し、無私となりそこへ身を挺していかんとすることである。
《堅気さんの女は羨ましいねえ。親がきめて呉れる、生涯ひとりの男を持って、何も迷わずに子供を儲けて、その子供の世話になって死んで行く》
と老妓がいってもらすのは、本人の私利が除かれた意志の反映されていない神託的ななにか、救いめいたなにか、〈いのち〉に対する老妓のもつ赤裸々な羨望の気持ちであろう。
《ふと、老妓に自分の生涯に憐みの心が起った。パッションとやらが起らずに、ほとんど生涯勤めて来た座敷の数々、相手の数々が思い泛べられた。》
パッションとやら、すなわち、色気が起らず〈一途〉になれず、みずからの不純な生涯を老妓は憐れんでいるのであろう。
それほどまでに老妓は(岡本かの子は)〈一途〉や〈純粋〉を愛重している。
しかし〈一途〉や〈純粋〉というのは、柚木のいうように《そんな純粋なことは今どき出来もしなけりゃ、在るものでもない》。
岡本が『老妓抄』で意味する〈一途〉や〈純粋〉とは、いますぐにでも自死を覚悟し決意してかからねば到底現実に果たし得ない夢想として雲散霧消する性質をもっている。それは以下の文意から読みとれられよう。
《現実というものは、切れ端は与えるが、全部はいつも眼の前にちらつかせて次々と人間を釣って行くものではなかろうか。》
仕事であれ、男女の間柄であれ、人間が釣られないためには、終末を先取りして決定し、その中身を一途にまた純粋に身を挺して涵養しなければならないのである。
残念ながら、老妓は死の覚悟が漠然としていた。
一方では、柚木とみち子との烈しい戯れはあじわい深い。
《普段「男は案外臆病なものだ」と養母の言った言葉がふと思い出された。立派な一人前の男が、そんなことで臆病と戦っているのかと思うと、彼女は柚木が人のよい大きい家畜のように可愛ゆく思えて来た。》
「そんなことで」というのは況や《自分の一生を小さい陥穽に嵌め込んでしまう危険と、何か不明の牽引力の為めに、危険と判り切ったものへ好んで身を挺して行く絶体絶命の気持ち》である。
いいかえれば、人生におけるふつうの男の究極目的であり、それはいつもつねにすぐに達成できるのだが、しかしそれを抑制しなければ危険がともなうはちきれんばかりのリビドーでもある。
「そんなこと」で連日連夜、男は臆病と戦っているのである。
『老妓抄』は岡本の単なる述懐小説ではなく、その述懐あるいは文意はわれわれのさまざまな行為の批判に妥当することから、辛辣なしかし慈愛のある自己啓発書としても読むことができる。
令和二年 六月
関連記事:
コメント