『混沌未分』は1936年(昭和11年)に雑誌『文芸』に掲載された岡本かの子の短編小説である。
幼少期から水泳の英才教育を父親の敬蔵から授かった水泳の女教師である小初。彼女にとって水中とは、何もかもが自由であり、荒唐無稽であり、まったき分化されていない〈混沌未分〉の境地であった。
そこは愛憎も善悪も男女も都鄙も、陸上とはことなり、すべてが未だ定められていない一緒くたの未決定な人智を超えた境地であった!
たほう陸上の世界においては、かつて富栄えていた敬蔵と小初の住まいには衰亡の兆しがみられる。父娘は都会偏愛が甚だしい。都会生活を営むために、父親の敬蔵がうなぎ取りの副業によって生活を維持するような困窮状態である。
父娘の都会偏愛は恋にも影響する。
薫という美しい顔立ちのしかししがない青年との小初の初恋は、小初の都会生活を一心にのぞむ意地や卑しさなどの執着心から、五十男の小富豪である貝原の妾として買われることにつながる。
岡本かの子|『混沌未分』解説
いわんや、ここでは〈混沌未分〉とは無意識(エス)を示しており、人間生活にあらわれるあらゆる現象の源である。
あらゆる現象とは、それは愛であり、食でもあり、また金儲けでもあり、われわれの現実世界において対立を産むようなものすべてを指す。
かような現実世界の粗暴野卑に愛憎を尽かした風流人、岡本かの子の耽美的文彩が『混沌未分』においては顕著である。
以下の引用は『混沌未分』における名場面である。
この物語のこせこせとした煩わしい登場人物の心情をすべて一緒くたにして払拭し、無に帰せしめる総決算の叙情である。
こせこせしたものは一切抛げ捨ててしまえ、生れたてのほやほやの人間になってしまえ。
向うものが運命なら運命のぎりぎりの根元のところへ、向うものが事情なら、これ以上割り切れない種子のところに詰め寄って、掛値なしの一騎打の勝負をしよう。
この勝負を試すには、決して目的を立ててはいけない。決して打算をしてはいけない。自分の一切を賽にして、投げてみるだけだ。そこから本当に再び立ち上がれる大丈夫な命が見付かって来よう。
今、なんにも惜しむな。今、自分の持ち合せ全部をみんな抛げ捨てろ―― 一切合財を抛げ捨てろ ――。
そして混沌未分、混沌未分と続いてゆく……
いったい全てを放擲して、無となって、身を挺して突き進んでゆく覚悟とは、どんな境地だろう。そのように進んでゆくことが、まさにそれが〈海豚の歓び〉であるのだろうか。
白濁無限の世界へ泳いでゆく小初の目からは灰色の恍惚からあふれ出る涙がぼろぼろと流れてゆく。
いわんや灰色とは〈混沌未分〉を象徴する無彩色であり、小初の恍惚は、それを求めて止まない要求は、われわれ読者の無意識の生活をすべてを物語っている。
令和二年 五月
コメント