Duolingoで中国語を学びはじめてから一年半年ほど経ちました。八十ほどあるレッスンのそれぞれには一から五、そしてレジェンダリーというレベルがあります。かつては五が最高レベルであったので、すべてのレッスンのレベル五の達成後、以前『【修了】Duolingoで中国語を150日間学習した成果|達成レベル』という記事を書きました。しかしほんとうの修了は新設されたレジェンダリーレベルの達成後であります。
一歩一歩と辿ってきた路がようやく千里に至ったようです、先日、中国語のすべてのレッスンのレジェンダリーレベルを達成しました。レジェンダリーレベルの達成後、わたしの中国語力はいかに。
【中国語編】Duolingoでレジェンダリーレベル達成後にできること
レジェンダリーレベルの達成という、道程千里のような境に至ったといっても、それは一つの道のはじめの一歩にすぎません。読者の夢を打ち砕くことになるかもしれませんが、一年半年、Duolingoで一日平均二、三十分の学習を(45,000XPの獲得を)しても、まともに中国語で会話することは(わたしには)できませんでした。
それならわたしは何ができるのか?先の『修了〜』の記事にまとめたことと同様で、つまり一年前とほとんど変わらず、特別進歩したことはといえば語彙を引き出す速さがあがるくらい、りんごをみて「苹果」というような連想力があがるくらいです。その一年前のレベルというのは〈リーディング〉においては宿泊施設にある中文の説明文を読めるほど、〈リスニング〉においては商業施設の中文のアナウンス(欢迎光临〜)を聴けるほどです。そして〈スピーキング〉においては話はたいてい一方通行で意思疎通は生活に必要なほどに可能で、〈ライティング〉においては話力に準じますが文字として書く力は無に等しいです……。
ところで、わたしは人生に耐えることを成功と考えています。人生行路というのは永遠で、人生行路の主人公は終始一貫して自分です。行く道の障礙、他人を蹴とばして、そうして手に入れた功績をもって路傍の他人から賛美されることを成功と考えるのは迷蒙で、みごとな自家撞着ではないでしょうか。だから英語であれ中国語であれいかなる芸の成功も、自他の境を越境し、己がこの宇宙における役割を果たすこと、人生行路を歩みつづけることにほかならないのです。
Duolingoで中国語を学んで思ったこと
「一芸は道に通ずる」、ある一つの分野を学ぶと、それがまた別の分野の助力になりえます。数学を得意とする人がその鍛えられた論理力のおかげで国語もまた得意になるように。
(Duolingoで)中国語を学ぶと漢字の字形・声符(発音)に親しむことができます。ただしDuolingoで学ぶ標準中国語(簡体字)は、その国の方針に関わっているのか台湾の華語とは異なり、字形が簡略化・簡体字化されています。漢字は中国から日本に渡ってきたものです。が、時代の変遷によって、その古来から脈々と受け継がれる本来のことばは変わります。ことばは人間存在そのもののようであり、思考そして行動に影響することばが変わると思考そして行動も変わることになり、ことばの良否とはことばの字形・声符などの源泉から汲まれる濃縮率の高低にほかならず濃縮率の低いようなことばは弱々しくなるように思います。
私たちが古典を読んで何とも言えない良い気分になるのは、ことばの本来の力が著者の高邁な精神とともに古典には込められているからで、あるいは単に古典という巨大な、想像の共同体の一員として参加していることに喜びを得ているからでしょうか。どちらがよいのか、よく分かりませんが、ことば本来の力、ことばの正しさを求めるなら、古典にみられるような源泉から汲まれる字を用いるべきでしょう。
ここでわたしは何が言いたかったのか?まとめると「一芸は道に通ずる」ということです。
令和三年 九月
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