方向を表す助詞の「に」と「へ」との違いは何か?たとえば「学校に行こう」と「学校へ行こう」という場合には、どちらの助詞を選ぶのが正しいのだろうか。どのような文脈を背景としているのかによって「に」や「へ」など助詞の選び方はきめられるものである。文章をつくる作者は、その選び方のルール(基準または規則)をきめておかなければならない。
どちらの助詞が正しいのかというのは作者の文化的・教育的背景によって変わるものである。だから作者はみずからの文章に(句読点をつけるルールのように)助詞の選び方に一貫したルールを用意すればよいのである。読者は、その一貫したルールに従ってそれぞれの助詞の選び方に正誤妥当の判断をすべきである。ここでは参考までに(私の)方向を表す助詞の「に」と「へ」との違いを解説したい。
「に」と「へ」との違いについて|上から下に、下から上へ
幸田露伴の『音幻論』によると、「に(ni)」の母音「イ」はつき進む意(または尖状に外へ衝くような意)、「へ(he)」の母音「エ」はつき進むのではなく命令するような意、である。意味の似ている文字はそれぞれの音の性質を考えてみると違いが判然とすると思われる。
ここではどこどこに行くという文脈の似ている「私、アメリカ〈に〉行くんだ」と「私、アメリカ〈へ〉行くんだ」という文章を比べてみたい。
1. アメリカに行くんだ
助詞の「に」を用いて「私、アメリカ〈に〉行くんだ」という場合、私は、アメリカという国になじんでいて、アメリカに行くことの心理的障壁は(金銭的・物理的などの障壁は)いささか低くあるようである。これは〈に〉と声に出すときに、口の形をもっとも力の抜けた状態の少し開いた状態にちかづけるからだろう。また〈に〉の口の形は微笑む。だから「アメリカ〈に〉行くこと」は、日用品の買い物をするような軽い感覚、日常生活の延長線上にあるようなことと思われる。
2. アメリカへ行くんだ
いっぽう「へ」を用いて「私、アメリカ〈へ〉行くんだ」という場合、私は、「アメリカ〈に〉行くんだ」という場合に比してアメリカという国になじみなく、そこに行くことはいささか重苦であるようである。声に出すときの〈へ〉の口の形は、ややびっくり(!)したときの状態にちかい。または何か納得したときに「へぇ、なるほどねぇ」という「へぇ」の口の形。
〈に〉と〈へ〉とを比べてみると、声に出すときに楽なのは「に」であり、それに比べて苦なのは「へ」である。だから「アメリカへ行くこと」は「アメリカに行くこと」に比べて重苦であり、心理的障壁が(金銭的・物理的などの障壁が)やや高いように感じる。
方向を表す助詞の「に」と「へ」との違いの図式化
「に」と「へ」との助詞の違いは、以下の性質にみてとれる。
たとえば「家に入ろう」というとき、この発話主体の私にとって、〈家〉とは具体的にイメージできるもので、私と家とのつながりは強い、家に入るのは軽快で、その確率は高く、これから、またはすでに行為している状態(現在的)である。この図の項目は、すべての対象にあてはまるものではないが、だいたいの項目はあてはまるものである。
勧誘の手段|登校拒否者への声かけ
先の図式の基準に照らしてみれば、先生が登校拒否の生徒に対し「学校へ行こう」と声をかけるのは厳禁といえるかもしれない。というのは〈に〉ではなく〈へ〉ということによって、割合に学校を裁判所のように厳しく重い腰をあげて行くような場所という印象をつくるからである。
実際に「学校へ行こう」と生徒に声をかけるのか知れないけれども、そのように声をかけるなら「学校に行こう」というべきであろう。
令和三年 二月
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