A君:「(ゴミ拾いの)ボランティア活動募集か。よし、応募するか。」(と、掲示板にあるリーフレットをみながらつぶやく)
B君:「なあ、君はなんでボランティア活動という偽善者のやるような行為をしてるんだ?」
A君:「はん。やらないよりはマシさ。なんていったって就活に有利だしね。」
B君:「やらないよりはマシだって?あほたれ。2時間も3時間も費やして金にもならない作業なんてやるだけ無駄だろう。就活に有利だって?そんなのはみんなが知ってるさ。だからみんながやる。そのみんながやることに流される君なんかに企業は振り向かないさ。その時間を読書か運動、いやバイトに費やした方がマシだ。ボランティア活動って、ようするに社会貢献だろう?バイトも社会貢献じゃないか。え?」
A君:「どうやら君は近視眼的な視野なようだね。このたった2時間、3時間の無償の社会貢献がぼくを良い就職先に導いてくれるんだよ。そしたらバイトで稼げる2,000円、3,000円なんて安いもんだね。それにたとえ就職先が決まらなくても、この経験をあらゆる人が評価してくれるさ。ぼくを自発的な人とね。」
一体どうしてボランティア活動を行うのか?
思うにボランティア活動を、他人からの称賛や自己の利益と結びつけることなく、能動的にできる人は、美しさを判断する心が充分にみがかれているのだと思う。
自然の資産を自己の資産(これは決して従来の資産の意味ではない)と捉えることができ、実際にそのように感じ、景観の汚染を嫌い、自然の資産の維持に努めようとするのである。
換言すれば、自分の部屋の汚さに耐えきれないような感情を、自然に対して感じるのである。
ボランティア活動をするならば発足者でなければならない
だからボランティア活動のために、わざわざボランティア団体に参加する必要はない。
しかし、ある人が、自らボランティア団体を引率して、ある街の景観維持に努めることは、美の普遍的同意(ある人が美しいと判断することを全ての人に認めさせること)をわたしたちに要求するのであって、美しさを判断する心が十分に拡張されていることを意味するのである。
そしてその主体的努力が(街の景観をよくするために毎朝ゴミ拾いをするなどが)まったく無駄であることが客観的に明らかであったとしても、かれは能う限りをつくして、景観の改善に努めるだろう。
(筆者の高校時代の校長先生は毎朝、通勤途中にゴミ拾いをしていた)
それはかれの美意識が、自然に、醜いものに抵抗するからなのである。そしてその抵抗力が強くなることで、ボランティア団体を引率する気持ちが湧き起こり、(自然あるいは街は、もっと美しくなければならないという気持ちが湧き起こり)ボランティア活動の輪が広がるのである。
だから、ボランティア団体のリーダーは、ボランティア団体の構成員の意気込みがーーたとえ就活に有利であるとか、社会貢献であるとかーーどうであれ、そんなことはどうでもよく、かれは、ただ街をきれいにしたいのである。
だから、美しさを判断できる心のある人は、ボランティア活動をやろうと意気込む前に、もう、すでに、ボランティアをはじめているのである。
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