撩乱とは花が咲き乱れることである。(花が無秩序に美しく咲くことである)
転じて金魚繚乱とは金魚の美しい成長と言い換えられよう。
岡本かの子の『金魚撩乱』の物語のあらすじは、およそ以下のとおりである。
崖下に住まう金魚屋の息子の複一は、かつていじめつけた崖上に住まう令嬢、真佐子のもつ肉体美と無性格に魅惑されるようになる。二人は大人に成長し、真佐子に征服されつつある複一は、じぶんが真佐子に惹かれる理由がさっぱりわからない。とうてい現実に真佐子を得られないとわかった複一は、真佐子を髣髴させる撩乱の金魚を創造したいという意欲を燃えたたせ、常軌を逸した様子で新種の金魚の創造に着手することに。
以下『金魚撩乱』の解説をしたい。
岡本かの子|『金魚撩乱』の解説
昭和十二年ごろに創作された『金魚繚乱』の主題は、真佐子の無性格を徹底的に描くに尽きる。小説家という職業のかたわら、仏教研究科でもある岡本かの子は、人間の個性であり、仏教の説いている「自己愛的傾向性」のような性格を有するものに絶望し、その性格をことごとく排して、純粋無垢な「無」をヒロインである真佐子の性格として設定した。
バロック趣味、バロック時代的産物の金魚、縹渺、非時代的などの無性格を象徴する語彙を巧みに選抜し、複一のもつ金魚や真佐子への「執着心」を対極に据え置いて、みごとに読者に真佐子の無性格を反映させた。
どうして男性の複一が、女性の真佐子へと惹かれるのか、その原因は、やはり磁石の《S極》と《N極》とが互いに惹かれ合うように、二人がまったく対蹠的な性格をもつからである。
複一は未練がましい「執着心」をそなえ「現実世界」に属しており、真佐子は「縹渺」とした態度をそなえ肉体は「現実世界」に、しかし精神は「非現実的世界」に属しており、どこか無限の遠方から真佐子の生は操られている。
どのような意志であれ、それは「自己愛的傾向性」を含んでいるため、何者かによってどこか無限の遠方から生を操られるより真佐子の性格を設定するほかはない。真佐子は無性格である。
これに対して複一の性格は「自己愛的傾向性」を有している、そして、その傾向性は、みずからの生の安心(存在)を希求する特徴をもっている。
それゆえ、複一のように生に対する執着心のつよいものは、その対極に位置する性格ーー真佐子のような縹緲とした性格ーーに惹かれてしまう。
真佐子の無性格は生きながら死んでいるという両義性をはらみ、それは無防備という生のありのままの姿の露呈であり、対象を決して害せず、対象に安心感を抱かしめる。
女としての真佐子の豊麗な肉体の魅力も加わることもあって、執着心のつよい男としての複一は、魅力満点な真佐子に対して無条件に降伏せざるを得ない。青年期より前において、複一が真佐子を変態的にいじめつけた原因は、まだ複一の心が純粋無垢であり、複一と真佐子とが対蹠的に角突き合わない性格だからである。つまり〈極〉が同一のもの同志なのだ。
おそらく、読者はこの物語を二通りにとらえることができる。一つは複一と真佐子との関係の逆襲としての成長譚としてとらえるか、二つは真佐子の無性格を徹底的に描いた岡本かの子の錬金術に驚嘆するかである。
もし芸術が、思想の洗練度・徹底性がもたらす驚嘆によって判断されて然るべきならば、真佐子の無性格を徹底的に描いて読者を驚嘆せしめた『金魚繚乱』は芸術ではないだろうか。
しかし芸術とは物語でも語られるとおり、「天才」や「別格」としてあしらわれるべきではない。芸術の域に達する秘訣というのは、だれもが同じ場所に立つ人間世界という地平線上で、どこまで生を肯定し、どこまで生の執着心によって無限の道路をはるか遠方まで歩み続けられるかどうかなのであろう。著者はそれを諭し、『金魚繚乱』を通して生命を息吹き、読者の生を肯定し促進しているかのように私には思われる。
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