美貌とは、人間の顔の標準的なものであるという。その顔は、ただ凡庸ではあるけれど、不安な印象を受けないものであろう。
これを信用すると、美貌をつくるための方法とは、ひろく世間を見渡して、その時代・社会における、あまたの人間の中間なる容貌に自分の顔を相似させることである。
ところで相貌心理学と云う学問によると、人間の内面性は、その外見の顔にあらわれる。
このフランス発祥の学問の教では、たとえば目尻の下がった面はおだやかさを、顎の突き出た横顔は野心をあらわすそうな。普通あたりまえに思われる「うれしいと笑顔になる」という関係も、その人間の内面の状態と外形との相関を教えてくれる。
されば、その時代・社会における美貌というのは、人間の生活感情を愛憎・喜怒哀楽などまたその深浅で分けてみて、その感情の起伏振幅のバランスのとれた中庸な人にあたえられるのではないだろうか。人間の顔には変わる部分と変わらない部分(輪郭・額・頬骨・あご)とがあるけれど、どちらにしても正規分布するから、快楽にゆるむ・苦痛にゆがむなど、それらの中間の顔が出来る筈である。
以上を考えると、客観的な美人には偏った性格・内面性のよしあしは見られない。よく優秀な遺伝子を宿している人は魅力的だというけれど、優秀な遺伝子とは、自然界に安定状態を齎らす因子である(超人的な能力を有する者が優秀な遺伝子もつとはかぎらない)。たいてい美人とは平凡なものだ。
他方、生活感情の偏った者は、その容貌こそ安易に親しまれぬものではあろうが、美人に比して、技芸に秀でた才をもつ傾向にある、といえる。
これを裏づけるわけではないけれど、19世紀イギリスの小説家、オスカー・ワイルドは、学業の偏重は容貌魁偉になると云ったことを小説に書いているーー《学問的職業で成功してる人間を見るがいい。何と見るもいまわしい奴ばかりだろう!『ドリアングレイの肖像画』》。また、これは私見であるけれど、人の顔は、肉体的快楽に溺れるとやつれてしまい、女性は、齢をかさねるほどこの傾向が一層あらわとなるものだ。
美貌の標準は、(美に普遍の型がないとすると)その時代・社会によって異なる。いま平安朝の貴族の相貌をみるに、その引目鉤鼻の容貌に美を見る人は少ないだろうと思われる。おそらく平安朝の貴族たちが引目鍵鼻を美貌と思っていたのは、かれらの都市では近親相姦が頻繁にあって、またその一様の生活環境から、人びとの顔が多様に分布しなかったからであろう。(当時平安京・京都の人口は10万〜20万人ほどで、平安朝の貴族の人数は、通常清涼殿に昇殿を許される上達部、殿上人の官職から50〜100名ほどであるという。狭い世界では、さぞかし異性の印象は強烈であったろう。)
ここで、平安朝の貴族の顔を相貌心理学の本を参照してみると、その引目は(細い目は)一事に没頭する集中力と情報を精査する判断力の高さをあらわすという。その〈く〉の字の鼻は横からみて、鼻筋の傾斜が緩やかであれば伝達力にすぐれ、断崖絶壁にちかければ口ごもる傾向にあるそうである。(ちなみに紫式部は「末摘花」巻で、高く伸びる鼻を「あさましう」や「うたてあり」と源氏の口を借りて言っている。〈あなかたはと見ゆるものは鼻なりけり。ふと目ぞとまる。普賢菩薩の乗物とおぼゆ。あさましう高うのびらかに、先の方すこし垂りて色づきたること、ことのほかにうたてあり。〉…….鼻は低いほうが好ましくあったのかもしれない。)
美貌をつくるための方法は、先にのべたとおりである。が、たれもが自分の顔を中間なる容貌に相似させるとなると、世の中には雑誌に掲載されるモデルのような顔が蔓延することになるだろう。すると、相貌の没個性化現象が起こり、人の顔は一様になって区別がつけられなくなってしまう。没個性と云うことは、その印象がおぼろげになることだ。してみると、芸能界で活躍する美男美女の顔は、おぼろげな印象では競争に残れないから、平均的ではあるが、しかし並外れた個性的相貌がよいということになる。
先天的な美人といえども後天的には特異な人になるし、その逆もじゅうぶんあり得る。たとえ個性の際立った容貌に生まれたとしても、後天的に生活感情を整えるならば、その相貌はいまよりも美しくまろやかに凡庸になる筈である。
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