三島由紀夫の紀行文『アポロの盃』のなかにある「快楽の法則」について解説したい。
以下は「快楽の法則」について言及している三島の文章を抜粋したものである。
快楽の法則
快楽というものは、欲望をできるだけ純粋に昂揚させ、その欲望の質を純化して、対象との関わりを最小限にとどめしめるものでなければならない。
純化されない欲望は対象にこだわるから、どんな対象もその欲望を満足させず、したがって欲望は真摯になって快楽から遠ざかる。
快楽の対象は、それが得られる前には欲望を昂揚するために十分であり、しかも得られたあとは、欲するものが得られてしまったという欲望を惹起しないために、できるだけ以前の欲望を思い出させないような、些細な客観的価値をもっていなければならぬ。
その価値はしかし主観的には伸縮自在でなければならぬ。
虚無あるいは理想は主観的な価値をしかもっていないから、おそらく快楽の対象として最適のものである。
釣りが快楽の法則を網羅している理由
快楽の法則を述べたあと、三島は「釣り」が快楽の法則を網羅していると評価している。
「釣り」における対象との関わりは況や「魚」のことである。
この「魚」は得られる前は「魚」ではなく、釣れるまでの(獲得するまでの)間は「正体は何だろうか?」と期待している状態であり、欲望を純粋に昂揚させるためにじゅうぶんである。
「純粋に」というのは対象にとらわれない主観的なことを示している。
そして正体不明の生物を釣り上げたときに「魚だ!」ということが判明する。しかし魚を釣り上げたあとは対象の獲得による倦怠感は引き起こされない。
たとえば恋愛は、告白してしばらくするとパートナーに飽きる、いわゆる倦怠期が訪れる。それはなぜなら告白する前から対象(パートナー)に対する執着心がつよく、告白に成功したあとは欲する獲物が得られてしまったという苦心を重ねた努力および目標の喪失を引き起こすからである。
「釣り」の場合、魚が釣れる前は「正体は魚」ということが理想であり、実際の正体は釣り上げるまで不明である。
そして魚を得られた後には「魚を得られてしまった!」という欲望は引き起こされない。魚を釣る「前」と「後」との欲望が完全一致せずに、手元には魚という些細な客観的価値のあるものが残る。
したがって、釣りは人間の発明したたいていの快楽の法則を網羅しているというわけである。
エピクロスの哲理|享楽主義
三島がたったひとつの本として称している『葉隠入門』の三十三番目の項目にエピクロスの哲理について書かれている。
エピクロスの哲理は、享楽がそのまま幻滅におちいり、果たされた欲望がたちまち空白状態におちいるような肉体的享楽をいっさい排斥した。
満足は享楽の敵であり、幻滅をしか引き起こさない。
とある。
「満足感」あるいは慢心というのは、その次には「既得感」を惹起させて、対象との関わりから遠ざけさせる。
それがために仕事であれ学問であれ人生の道程に慢心しているものは、その本道から横道に逸れて遠ざかり、不満足な後続者たちに次々と追い抜かれてしまうのである。
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