「あたって砕けろ」「やらずに後悔するよりやって後悔する」といった定型フレーズは、無思考で、無責任な、じぶんは無害な立場にあるものの愚言であるといっていい。
告白というのは、どうしてもそれをせざるをえない状況に立たされたときに成功率が最高度に達する。
うやむやな感情の逡巡、もだえるような感情の苦しみ、それらから逃れるような告白がたしかな成功を引き寄せる。
ひとりよがりで、身勝手な、むき出しの欲望を曝け出すのは、相手が驚いてしまい成功しないのだ。告白における成功の秘訣は、ここにあると私は信じている。
「あたって砕けろ」の告白
たしかに告白に迷っても仕方のないことだ。
告白するにせよ告白しないにせよ、じぶんの人生は進んでゆく。だったら「あたって砕けろ」の精神で告白し、感情の迷いを断ち切ることが一等よい選択であるように思われる。
しかしねえ、もだえるような苦しみのない、何かを思うがままに所有せんとする感情がむき出しの状態にある人が告白の成功を引き寄せられると思えるだろうか?むやみに告白しても「あたって砕ける」だけだ。
告白を成功させるには、もだえるような感情の苦しみと、そして周囲周到たる準備が必要なのだ。そんなかんたんな告白で手に入れられた成功が、この先、末長いしあわせを保証してくれると思えるかい?まったく思いでにも残りもしない。
「やらずに後悔するよりやって後悔しろ」の告白
どっちにしたって後悔するならば、じぶんの能力を最高に発揮して告白し後悔したいものだ。
素朴で、安直な、思考の停止した状態の告白では成功しても失敗しても、よろこびもかなしみも小なりけり。そして手元に残るのは何か?それは告白という単なるストレス発散後のみじめな清涼感だけだろう。
もし、その告白の成功のために、じぶん史上最高の思考を発揮させているのならば、次の(次はないかもしれない)告白に生かす、能力が手元に残る。
あるいは思考を働かせているうちに、ふと、気がつくのである。
「どうして告白なんてしようと思ったのかしら……」
いっときの感情は、視野を眩ませ、崩れやすく、発散して後悔することがほとんどだ。今一度、告白を成功させるためには、もだえるような感情の苦しみと、そして周囲周到たる準備とが必要である。
告白するためにどれだけ苦しめばよいか?
告白をしなければ生きられないくらい切羽詰まった状態であるならば、じゅうぶん苦しんでいるといっていい。
そうでない場合は、告白の苦しみが足りない。告白は怖く迷うもの、それはあたり前である。
ところでどうして告白に苦しむ必要があるのかといえば、それは相手に哀れみの感情を引き起こすためではないだろうか。つまり、苦しむ告白によって泣き寝入りのような効果を狙うのである。もだえ苦しんでいる人は何だかゆるしたくなるのだ。
告白における周囲周到たる準備とは何か?
いったいどうして告白したいのか、告白しなければならないのか、じぶんの感情を整理して、批判し、軽蔑することが告白における第一の準備である。それができなければ失敗する、間違いなく。心あたりはあるはずだ。感情が勝ちすぎて決行したことに、後悔したことは何度もあるのではないか?
第二の準備は、告白のあとに考えられる、じぶんの感情や立場を予見すること。告白したあとに苦しみが解放されるような感情ないし立場を予見できれば準備万端である。
これは端的にいうと「対象に執着するな」ということである。
「対象に執着するな」というと何か矛盾のように聴こえるが矛盾ではない。これは告白の成功率を引き上げる秘訣めいた法則なのである。覚えておくこと!「対象に執着するな」、である。
告白するなかれ
もだえ苦しみながら周囲周到たる準備をするうちに前述の「どうして告白なんてしようと思ったのかしら」という考えが思い浮かぶ。
そんな考えが思い浮かんだなら告白するなかれ。告白とは、告白した瞬間から酔いが醒める法則を君は知ったのだから!つまり期待に胸をたかならせた告白のあとには残酷な倦怠感が訪れるのである。
どうしても対象に執着し、苦しみ、告白せざるをえないときは、安心して、告白せられよ。その告白の成功率は最高度に達しているはずである。
令和二年 六月
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