「彼が文学を読むのは」と「彼が文学を読むことは」という二つの文を比べてみたい。二つの文のちがいは〈読む〉という動詞の後に助動詞の〈の〉を置いているのか、それとも〈こと〉を置いて読むという動詞を名詞化しているか、というものである。そのちがいをより具体的に言うと、この後に述べることが、主体の運動(彼が文学を読む)に関連することか、運動する主体(文学を読む彼)に関連することか、というものである。
本文でより詳しく「するのは」と「することは」とのちがいをみてみたい。
「するのは」と「することは」とのちがい
1. 時制
「するのは」と「することは」との時制の項目に「現在的」「過去的」とある。これはある会話を想定してみると、わかるように思う。
A:「君は、文学を読むのは好きか?」
B:「えぇ、文学を読むのは好きですよ」
この会話からは、いまBが文学を読んでおり、それをみたAが、文学を読むというBの行為に言及している、というような場面を想定することができよう。
もしここでBが「文学を読むことは好きですよ」と言うと、この場合、Aは現在進行形のBの行為について言及しているのではなく、Bのふだんの行いについて言及している意味にとれる。だから自制は「するのは」は現在的であり、「することは」は過去的であるように思われる。
2. 特性
それが現在の行為について言及しているなら、そこには「行為遂行的」の意味がある。また、ある行為の未遂・既遂(したかどうか)について言及しているなら、そこには「事実確認的」の意味がある。
「するのは」からは行為遂行的の意味がとれるので、「彼が文学を読むのは」と言うと、まさにいま彼が文学を読んでいるというその流れを重視するのである。
「すること」からは事実確認的の意味がとれるので、過去のある時点で彼が文学を読んでいたという事実を重視するのである。
3. 関連対象
「彼が文学を読むことは(することは)」に関連するのは〈文学を読む彼〉で、この後に述べることは「文学を読む彼の行為の頻度・強弱など」である。
いっぽう「彼が文学を読むのは(するのは)」に関連するのは〈読む〉であり、この後に述べることは「彼よりも読むという行為一般を重視するもの」である。
4. 文体
「するのは」は口語的であり、「することは」は文語的であるように思う。
口語と文語とはそれぞれ優先するものが発話と文法であるから、自分の文体の規則にしたがってどちらかを優先したい。
主語をぼかして、述語を強調する「の」
ところで、「の」という助詞には、かかる前の語を強く引き立たせる機能があるように思う。たとえば「君たちはどう生きるか」と「君たちはどう生きるのか」という文を比べてみると、「生きる」に「の」をつけたほうは主語(君たちは)の存在感は薄くなるが、「の」がないほうは述語(どう生きる)の存在感が濃くなるように感じのである。
【一】君たちはどう生きるか?【主語を強調】
【二】君たちはどう生きるのか?【述語を強調】
先に述べた「彼が文学を読むのは(するのは)」という場合は、主語(彼)ではなく、述語(本を読む)がやや重要となるわけである。
作者の視点を設定する|「するのは」と「することは」と
文章を絵画のように考えるとき、「誰の目で書いたのか」その視点を徹底して固定しなければならない。
どこかの章で「私が文学を読むのは名文を書くためである」と書いたにもかかわらず「彼が文学を読むのは名文を書くためである」と書くと、この文章の視点を私でも彼でもあるところに設定することになる。
つまり「私が文学を読むのは」と書いた同一の文章において「彼が文学を読むのは」と書くと、彼は彼の意志で文学を読むはずなのに、どうして私があたかも彼の意志を知っているように書けるのかが不明瞭となるわけである。
それだから「彼が文学を読むのは名文を書くためである」と、彼の意志を私が知ったふうに書くのではなく、「彼が文学を読むのは、名文を書くためである」と「、」で区切るなどして、その文の視点を合わせる必要があるのではないだろうか。
非精神的物体は、語ることはできない
また、「は」や「が」の格助詞を非精神的な物体(花や机など)に測置すると、あたかも花や服がみずからの意志で何かをすることになってしまう。
ふつう「花が咲いた」と言えば、主体の見ている花がパッと咲いているんだなと思うのだが、これは文法的には紛らわしく、花に精神性を認めてしまうことにつながる。
令和三年 二月
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