旅先の風景が目に入り、思わずして写真を撮るのはいったいなぜだろう。その風景が、それを見たものの美的感覚をくすぐり、それを保存して未来のある時点において今この旅を回想したい願望を働かせたのはいうまでもない。とはいっても、そのような旅先の風景は、私が撮らなくとも専門の写真家が撮っている。後にインターネットで検索して、その写真をきっかけに、かつての旅を思いゆくまで回想すればいい。
思わずして写真を撮る人の心理とは、およそ以下のとおりである。
かれらは自他の感情の区別が曖昧であるから、撮った写真を共有して、他人と一緒になってキャキャと笑いあうために写真を撮ったのである。あるいは、見栄えのいい写真をSNSに投稿して、他者に対する優越感を自己のうちに獲得するといった卑俗な願望のためか。あるいは単に、おぼろげな記憶の代わりに旅の地の征服の記録として写真を撮ったのである。
いずれにせよ、思わずして写真を撮るのは、現前する対象が、私の日常得られる価値を超えているからである。(だれが牛丼やカップ麺の写真を撮るだろうか!)
翻って考えて、カメラのボタンを押すごとに私の日常の価値を貶めているから、一枚といえど、写真を撮るのは決して無料ではない。
このように写真を撮るものを風刺する批評家は哀れであるに違いない。しかし、もっと哀れなのは、写真を撮り、思考をめぐらさずにそこを息つく間もなく立ち去るものではないか、そして撮った写真をやはり思考をめぐらさずに共有したりSNSに投稿したりするものではないか。
自己を探求するおもしろさを知らない人は、むやみに写真を撮ってしまう。
かれらがおもしろいと思うことは、他人の後を子どものように追いかけることである。だからSNSに投稿された写真を眺めては、羨んだり憎んだりする一般の感情をあらわにするのである。こうしてかれらは、列車にはられたポスターに旅情をあおられて、いきおい旅に出て、写真を撮って、本日も自己の価値を貶めてしまうのである。
いい風景に出会してはいたずらに何枚もの写真を撮るのは哀れなフォトグラファーである。風景にかぎらず、何か価値のありそうなものーー見栄えのいい食事や美しい植物や建築物などーーに出会してはむやみやたらに何枚も写真を撮るのは哀れであり滑稽でもある。
カメラのボタンを押す前には考えなくてはならない。現前する対象がどうして私の美的感覚をくすぐったのかを。しかれば自己の感情にかかる霧は澄みきって、唯一無二の私に出会すのである。その出会いの価値は、世界のいかなる絶景も絶対に勝ることはない。
令和二年 十月
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