「おもう」の同訓異字は多数ある。ここで例を挙げるのは次の六字。すなわち「思う」「惟う」「想う」「憶う」「念う」「懐う」である。一般に「おもう」の意はすべて「思う」と書く。とはいえ、すべてを「思」の一字とするのは、言葉への深い愛情と、豊かな感受性を具える人には慊りなく思われる。キャンバスに絵を描くように、言葉の世界を美しくあらしめたい。そういう言葉の魔力に魅せられた人を念頭に、ここに「おもう」の異字とその意味とを記したい。
「思う」の意味について
漢字を分解して、その語源に遡ってみると、現代ではおなじ意味の字であっても、それらのちがいが明らかになる。
「思」の字は田と心とに分けられる。
田は頭脳の象形、心は心臓の象形である。すなわち、頭と心とで「おもう」。もしあらゆる判断を人の頭脳が司るとおもっているなら、「心」をつかわないから、なにかを思うことはすべて「おもう」と表記することになる。
また、『論語』に「学びて思はざれば則ち罔し。思ひて学ばざれば則ち殆ふし」とある。『論語』は多様に解釈できるけれど、この文意の「思う」は「悟る」にちかい。これを考えると、漠然として浮かぶ「おもい」は、ひらがなで「おもう」と書くべきなのかもしれない。
「惟う」の意味について
惟は声符。唯に通じ、訓義に「ただ」「これ」とある。『字通』によると〈隹は鳥占。その神意を示すことを唯といい、神意をはかることを惟といい、やがて人の思念する意となった〉とある。
何らかの吉凶の兆、人知の及ばない神的なことをおもうには「惟う」を用いるといいかもしれない。
「憶う」の意味について
『字通』に〈「意」は音に従い、音によって示される神意をはかり、さとることをいう。憶は神意をはかる意に従う字である〉とある。ところで白川文字学によると、「口」を口耳の口と解すべきものはほとんどなく、口はおおむね巫女が祝祷・盟誓を収める器の形であるᆸに従うという。「口」はそのほとんどが祝告に関する字である。
「憶」は、神意をはかることから「惟」にちかい。「憶」と「惟」とのちがいは、現代の「追憶」や「記憶」の語を考えるに、かつてあった神意がまためぐってきてほしいという(現前あれ!という邪な?)おもいがあるかどうかではないだろうか。憶は『玉篇』に「意不定、往来念也」とある。
他方、「惟」はすべてを自然に頼むような感じである。
「想う」の意味について
「想」という字は、「木」「目」「心」で構成される。ぼんやりとした感じの「おもう」を意味するのではなくて、木のような心に具体的に浮かべられるものを〈おもう〉ときに「想う」を用いるのであろう。想念を伝達する、想像力をみがく、想定の範囲、プラトンの想起説など、経験したこと、心にある具体的なものを前提するのであろう。
白川静『字通』には〈「想」は『説文』に冀思するなりとあり、その形容を思い浮かべることをいう。その人を慕う意がある。「冀」は神像の座する形、大きい、覬・希・幾と通じ、ねがう、こいねがう〉とある。
「懐う」の意味について
「懐」は衣服のえりもとの象と、目から涙が垂れている象と、心の象から、死者をなつかしくおもうを意味する。『字通』に「追懐を本義とする字である」とある。
「念う」の意味について
『字通』に〈今と心との会意の構造とは考えがたいから、今の転声とするほかない。『説文』に「常に思ふなり」とし、今声〉とある。
心に深くおもうこと、常におもっていることは「念」を用いる。
およそ仏教の「念仏」とはこういう意味であろう。「仏」とは、偏在する一切の無であり、「念」とは、その皆空である「無」を常に心におもうことである。人は悟ったときに「南無阿弥陀仏」と念じる。そこから「念う」とは、生命の恒常普遍の真理を「おもうこと」「そうだった、と思い出すこと」を表現するときに用いる。それは、したがって、人の心に眠っているわけである。
おわりに
ある物事を正確に表現するには、自ら故きを温ねて、それをあらわす言葉の語源から本来の意味を汲んで来なければならない。用字を違えると、じぶんの発言が思わぬところへ飛んでゆくこともある。
ここでたびたび引用させていただいた白川静『字通』は、文章家の座右の書、言葉の本来の意味を知るために非常に役に立ちます。漢字文化圏に住む人なら必読の、心からおすすめできる本です。
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