悪口を利けば、恋はお手の物
〈悪口〉とは、みずからが主観的に有価値だと思うものを他人が無価値とみなす発言である、もしくは、主観的に反価値だと思うものを他人が増幅するような発言である。
「主観的な価値」というのは、そのものから獲得される快・不快の感情により決められる。たとえば、あるものが背丈の低さに対して不快の感情(劣等感)を抱いており、その不快の感情が増幅させられるような発言は〈悪口〉であるといっていい。
〈悪口〉によって他人に不快の感情を抱かせれば、その発言者は他人から憎しまれる(他人みずからの不快の感情を発言者に結びつける)。それゆえに、発言者は今後、何らかの悪口ないし悪事を相手からこうむる可能性が大いにある、けれども恋愛においては〈悪口〉が恋の成就に結びつけられるのである。
恋愛における「賢しげな悪口」について
すべての〈悪口〉が愚かな発言であるわけではない。
ときに〈悪口〉は(とくに恋愛においては)恋が実りやすくなるためからして「賢しげな行為」とも思われる。
「賢しげな」とは、何らかの目的を遂行するために最短距離を選ぶことのできる知的活動、それが客観的に納得される場合における行為を示している。この場合の目的というのは恋愛の成就である。
〈悪口〉が賢しげな行為とも思われるといったわけは、他人があるものに対して無関心である場合には、他人が何に対して快・不快の感情を抱いているのか不明であるわけであり、その何かは今は相手の世界の外に置かれている。
けれども〈悪口〉によって、相手の感情を揺さぶることができれば、発言者が相手の世界のなかに入りこみ、相手は何らかの感情を発言者に結びつけることができる。
つまり、他人の無関心とは、あるものの非存在を意味しており、他人のなかの非存在を存在に変えるには、それが快であるか不快であるかにかかわらず「悪口」が有効なのである。
第一印象(他人のなかの非存在を存在に変える瞬間)が他人にとって最悪の場合であるとしても、他人のなかにまず何かが存在しなければ快・不快の感情ははじまらないのである。
関心を独占する
われわれの快・不快の感情は、関心がなければ(われわれの世界のなかに対象が存在しなければ)発生しない。ところで恋心とは、対象の有するさまざまな要素が、あるものにとって最も安心(快の感情)を抱ける場合に発生する。
〈悪口〉によって、相手に不快の感情を抱かれた場合でも、それが何らも価値を損なう発言ではないと相手が覚えたときは、それらの不快な感情はすべて無化して、それまで抱いていた不快の感情がたちまち快(安心)に転じる。
それはさながら負債者が借金を完済してよろこぶような感じかもしれない。
「悪口」は、揶揄する感覚で
〈賢しげな悪口〉とは、いってみれば極度に相手に憎まれない程度の発言、いわゆる揶揄であり、実は人は揶揄すること・揶揄されることに安心感(快の感情)を抱くのである。
なぜなら揶揄する・される関係というのは、まったく双方が警戒心を解いている〈安心している〉場合を前提しているからだ。
揶揄によって、相手の警戒心を解いて安心感を抱かせ、相手にとっての関心を独占するならば、相手は悪口をいう(揶揄する)発言者に対して恋心を抱くはずである。
「賢しげな悪口」の実践例
これまで述べたことを実践に移すならば以下の例を参考されたい。
第一に、発言者は、極度に憎まれないほどの悪口を相手に与える。
第二に、発言者は、これまでのすべての悪口は君がほんとうに安心感の抱ける人(いい人)でなかったのならばいえるわけがない、と告げる。
第三に、相手は、発言者に対して恋心を抱くだろう。
友人に対する悪口
友人に対する悪口も恋愛における悪口と同様である。友人に対して安心感を抱いているから悪口を発せられるのである。悪口というのはよろこばしいことなのだ。
インターネットにおける悪口
しかしながらインターネットにおける悪口(誹謗中傷)は少々事情がちがってくる。なぜなら発言者の存在が、被害者のなかでは不確かであり、いまだ被害者の世界の外に置かれているからである。
インターネットにおける発言者の悪口は単なる欲求放散に終始する。無思考で、無責任な、みずからに価値を創造しない無益な発言であるといっていい。結論すれば、〈悪口〉は、面と向かって発せられない場合は(SNSでは)無益なのである。
さらにいえばその〈悪口〉の表現が文字のような記号に終始するのではなく、身体言語によっても表現されなければならない。大胆にいうならば〈悪口〉を発するときは私の生死を(全存在を)賭す必要がある。
恋愛における「愚かなほめことば」
〈悪口〉は安心感が大前提に置かれるが、たほう「ほめことば」は不安感が前提に置かれる。
「ほめことば」は、いまだ警戒心を抱いている相手に武装解除を要求するようなものであり、つまるところ「ほめことば」は脱衣させるような攻撃を相手にしかけているのである。
そのような攻撃(ごうかん)に当然ながら相手は警戒心を抱かざるをえない。発言者に対して不安感は募るばかりである。(しかし安心感の抱けるものからごうかんされるのは快感かもしれない)。
先述のとおり、恋心とは、相手から最も安心(快の感情)を抱ける場合に発生するため、噓八百の「ほめことば」によって不安感が募った相手とは恋愛は成就しないだろう。
告白は、愚かな行いにすぎない
恋愛において告白を考えるものは沢山あるが、そのなかで告白が愚かな行いであると考えたものはどれほどいるだろうか。
「君に好意を寄せている」というような告白が愚かな行いである理由は、第一に、発言者が相手に告白を可否する決定権を委ねて相手を上手とみなしているからである。恋愛は勝負であり、告白は降伏とみなされる。
第二に、もし「君に好意を寄せている」といって告白が成功したならば、告白によって可(OK)を授けられた発言者は相手に対して暗黙の責任を背負うことになる。それはつまり相手に恋愛の主導権を委ねることになるのであり、発言者が不利な位置を占めるのである。
第三に、告白が成功することは、いいかえれば、双方の安心の決定であり、安心と不安とが交錯するドキドキが一等たのしいときの恋愛の状態を放棄することを意味するからである。これは双方にとって失敗であるだろう。
以上の三つの理由から告白は愚かな行いにすぎないと結論づけることができる。
まとめ
本記事の内容をまとめると、恋愛においては〈悪口〉の程度が揶揄である場合には、〈悪口〉が恋愛の成就に結びつき、ひるがえって〈ほめことば〉は相手に警戒心を緩めよ、といって武装解除を要求するからして、双方の不安感を前提しているため、恋愛の成就に結びつかない。
そして何よりも告白は、発言者にとっても相手にとっても恋愛の敗北を意味するから愚かな行いであるといえる。
令和二年 七月
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