機械技術の発展によって、すぐれた翻訳機や通訳機などが私たちに英語を学ぶ意味を問うている。
今では英語の読み書きができない人でも、翻訳機を介せばすぐに英語の読む書きができるようになり、また英語を聴けず話せない人でも、通訳機を介せばイギリス人やアメリカ人などと英会話をたのしむことができる。これら機械の精度ははるかに高く、今では言葉の壁を超えて、どの国籍のどの民族でも、母語を用いて、だれとでもわかりあえる世界が築かれている。このような世界で生きる今、私たち日本人が英語を学ぶ意味はあるのだろうか?
英語を学ぶ意味とは?
何であれ学ぶ意味がわからなければ、私たちは学ぶことをやめてしまう。
学びに燃やされる意志力を、もっとほかの意味あることに燃やしたい、というのが私たちの本音である。しかしながら学校教育において、学校卒業後の社会においても、英語から逃れられない雰囲気が日本にはただようている。
その雰囲気にのまれてしまい、闇雲のなか私たちは英語を学ぶために、まともな英語力を身につけられず、貴重な青春を苦しみの黒歴史に塗り変えてしまうのである。こういうもったいない経験をせぬように、まず、私たちは何か納得できる意味を見出すことから学びをはじめるべきなのだ。
一、英語を学ぶと国語力が伸びる
私が考える英語を学ぶ意味のひとつは「国語力を伸ばすため」ということ。
「国語力」とは、これは抽象的な定義であるけれども、自分の知識を活用し、民主的に合意を得るための力である。つまり言葉によって合意を得るための力である。ここで重要なのは「知識」である。それはある対象をどれほど細かく理解できるかどうかという概念でもある。
たとえば「芸術」と「アート」とは何が違うのか?この二つの概念を同じ意味にとらえるならば、故意に「芸術的なもの」を「アート」という必要はないであろう。「芸術」といえばいい。けれども意味の違いがあるために、「芸術」もしくは「アート」と名付けられることになる。
「芸術的なもの(対象)」を「芸術(概念)」とするのか、それとも「アート(概念)」とするのか、ああではない、こうでもないと、こうして緻密に構築される概念によって私たちの思考はより明晰に、より高度に発展することになる。
ぼやけた対象を日本語だけで照らし明瞭にすることはむずかしい。英語や中国語などの別の見方によって、その側面を照らし、その全貌の発見を容易ならしめなければならない。
英語で調べれば、日本語の意味がわかる
また、たとえそれが意味の不明瞭な日本語であっても、英語で調べるとその意味が明らかにされる場合がよくある。
「英語で調べる」というのは、日本語を英語に翻訳するというのではなく、翻訳された言葉がどのような(英語の)文脈で生きているのかを見出すことである。
日本語の文章を読んでもわからなかった言葉の意味が、英語で調べることで「なんだそんなことか」と納得できることがよくあるのである。
二、グローバルな社会で生きるために英語を学ぶ
「日本とは何か」、「私とは何か?」。このような「自国の文化」や「その産物である私」を説明するとき、私たちは外国に対する文化的な関心をもっていなければならない。というのも「私はこれこれの国に所属するしかじかの人間です」ということを説明するのは、同じ日本人に対してではなく外国人に対してであろうから。つまり外国に対する文化的な関心をもっていなければ「自国の文化」や「その産物である私」を説明するには及ばない、また、そもそも日本との比較の対象を欠くことになるから自国の文化の特徴をうまくつかむこともできなくなる。
だから英語を学ぶことは外国文化に対する関心を強くさせるのみならず、日本についての関心をも強くさせ、「私とは何か」を説明するのに必要な文化的理解力を育むのである。そういう文化的理解力を身につけることは、世界の市民として、グローバルな社会でよく生きるための大前提であるはずである。
しっかりと英語を学んでいる人たちは往々にして、異文化理解力の高い、しかも自国の文化を広く細かく説明できる人たちなのである。
三、「英語がわかる」なら学習能率が上がる
今ではすぐれた翻訳機があるから英語がわからなくても情報収集には問題がないと思うかもしれない。ところが、英語がわからないと(英文を一瞥して拒否感を覚えるようなら)、そもそも読解するのに時間がかかるために、英語の環境をよりどころとする学習の能率が低下するのである。
2020年から小学校で必修の「プログラミング言語」はほぼ英語で書かれている。いちいちのコードを英語から日本語へと頭のなかで変換するなら、プログラミング習得の能率は低下してしまう。
また論文などの高度に抽象化されている文章は、すぐれた翻訳機をもってしても適当に和訳されることはない。それゆえに原文を吟味しなければならないのだが、英語がわからなければその意味を理解できないのはもちろんのこと読解に時間がかかるので、やはり能率は低下することになってしまう。
四、英語を学び、学習の基礎力を伸ばす
私たちが英語を学ぶ理由、それは私たちが英米人ではないからでもある。学ぶことは山ほどあるのに英語に時間を多くとられてしまうのは残念としかいえない。とはいえ、これは思わぬ副産物を私たちにもたらしてくれる。それは英語であれ中国語であれ、何らかの外国語を学ぶことが脳の大脳皮質や海馬などの記憶に関連する領域を拡大するということである。
つまり英語を学ぶと、あらゆる学習の基礎力を伸ばすことになり、そのほかの分野を学ぶ助力となり得るのである。
まとめると、英語を学ぶことで、国語力が伸びることになり、グローバルな社会でよく生きる力が身につき、英語の環境をもとにした学習の能率は上がり、あらゆる学習の基礎力を伸ばすことができる。
こういうわけで、今も昔もあるいは未来においても私たち日本人が英語を学ぶ意味はあるのであり、英語を学ぶ価値は高いと思われる(費用対効果は好ましい!)。
しかし、学ばれる英語の内容は濃くなければならず、また英語に多くの時間を割いてはならない。
英語に多くの時間を割いてはならないのはどうして?
英語は世界の公用語である。私用語の日本語で何かを生産するのは、世界の主流ではない亜流の “サブカルチャー的な” 分野で価値を創造するのに等しいかもしれない。
だからといって日本語ではなく英語で何かを生産するのは、翻訳者でも通訳者でもない日本人の仕事ではない。この土俵に立って仕事をするならば、私たちはイギリス人やアメリカ人やに土俵の外に投げ飛ばされてしまうであろう。
英語を学ぶことに貴重な時間を多分に割くのは(とくにTOEICの高得点を目標とするなどは)もったいないのであり、それよりももっと別の創造的な活動にとり組むことが重要である。
日本人の学力を低下させるのが目的なのかと思うほど、あまりにも長い時間英語を学ばせるのはふしぎである。
内容の豊かな英語を学ぶこと
英語を学ぶ意味はある、そしてその価値は高い、そう書いたものの、学ばれる英語の内容が日常的な、即実用向きの会話や文章であるならば、英語を学ぶ価値は減ずるであろう。そうした内容は、すぐれた翻訳機や通訳機やがある今、学んでも意志力を無益に費やすだけなのである。
文化的な背景を理解する
それならどういう英語を学ぶべきなのか?私の思うところには「英文を読むときに文化的な背景の理解に努めること」がある。
具体的な例をあげたい。英文で欧米人のスピーチが取り上げられているとする。そのスピーチを「英語から日本語に訳する」という単純な作業をするのではなく、いったん作業を止めて、文化的な背景を点検する。〈日本人はスピーチを言い訳からはじめ、欧米人は自慢からはじめる、どうして欧米人は自慢からはじめる(人が多い)のだろうか〉というように。このように日本人や欧米人のルーツを英語で遍歴するなら、英語力ないし文化的な理解力はもちろんのこと、まとまった系統的知識を得ることもできるように思われる。
英文を読みその文化的な背景を理解することには多くの時間を割いてもいいはずである。
英語で文章を書くこと
英語で文章を書くと、日本語ではかんたんに伝えられる意見でも伝えられないもどかしさを感じられ、あらゆる科目を日本語で学べるありがたさを感じられる。
それと、文学や論文で見られるような高度に抽象化される文章に慣れることもできるだろう。抽象化とは、ある具体的なものから派生する概念の表現である。どうして思ったことを素直に書けないのか、日本語で思ったことを、一呼吸おいて、英語で書き改める訓練は間違いなく有益である。
日本語の特徴をつかむために
私たちの自国の言語(日本語)の特徴をつかむためには英語やそのほかの外国語を学んでみて比べるほかはない。英語と日本語とを比べることは、それぞれの言語の特徴をつかむ適当な方法である。
ここに「This is the reason for 〜」という文章がある。直訳すると「これはその理由です。〜についての」である。和訳すれば「これは〜についての理由です」となろうか。
「これはその理由です」と脈絡もなしに突然いわれると、英語の構文に慣れていない人にとっては「え、理由、それは何?」と、腰を起こしつぎの情報に注意をはらうことになる。こうした文化的な差異を利用して注意を喚起する文章はビジネスに活用できるはずである。習得している外国語の数に比して言語の特徴は明らかになるため、外国語を習得すればするほど得なのである。
英文の多読が、日本語の表現力を伸ばす
また、「その英文はわたしを魅了した」のように無生物を主語として使役を活用したり、「夢中で読んだ。三度の飯を忘れて。」のように文末に情報を追加したりと、英文を多読するうちに、いろいろな表現方法・修辞技法にふれるため、日本語の表現力が自然と豊かになる。
人間を根本的に規定するのが行動であり思考であり言葉であるならば、表現の豊かさとは、私たちを真に個性的たらしめる必要不可欠なものであろう。
異文化を身体で感得するために
すぐれた通訳機によって私たちは母語を用いてだれとでも会話することができる。
しかし通訳機を介する会話というのは、どれほどすばやく正確に他言語に翻訳されようとも、それは会話というよりは意思疎通の水準で、お互いの関係を密に結ぶことはできない。なぜならば、会話というのは言葉だけではなく身体言語をふくめた表情、動作、テンポ、リズムが重要なのであって、それらの質により会話するお互いの関係が強く結ばれることになるからである。通訳機はそれらの質をまるで零落させるから、お互いの関係が親密になることはない。
顔見知りのような関係から生まれるのは皮相の異文化である。より深い、より複雑な、より良い異文化を身体で感得するためには、互いが直接言葉を交わせる言語で話さなければならないのである。
おわりに
今、すぐれた機械が私たちに英語を学ぶ意味も意欲も失わせているようである。それでも今、英語を学ぶことは、国語力を伸ばすためにも、またグローバルな社会でよく生きるためにも、私たちに強く求められていることである。
英語を学ぶことで異文化や自国の文化に対する関心が高まり、「日本人としての私」の自覚はいっそう強くなる。こうした自覚なくしては何をするにせよ何を創るにせよ偉大なものは生まれない。
英語であれなんであれ「学ぶ意味」とは、みずからが積極的に見出すものである。「金を得るために」「人気を得るために」という意味で学ぶというのでも全然いいと思う。そういう学びに対する意味付けというのが、より高度に発展し、知的な意味を帯びることによって、私たちは本当の学びの意味を理解するのではないだろうか。
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