漢文は中国の古い形式の文である。現代中国語の基であり、形式がそのまま現代の中国語に承継されている漢文もある。
ところで日本語の特徴として、英語や中国語など諸外国語の言葉を日本語に転用できるポイントがある。
「ポイント」というカタカナも、「漢文」という漢字も、英語や中国語を日本語に転用しており、わたしたちが使用する日本語は、こうした諸外国語の言葉が混入している。
なかでも中国語は(漢文は)現代日本語の根幹をなしている。
したがって漢文を学習することは、すなわち現代日本語を理解することであり、換言すれば、国語力を強化することなのである。
漢文の特徴と、わたしたちの美意識と
漢文の特徴は、その文の構造の簡潔さにある。
少ない言葉で多くを伝達し、文から得られる我々の心象を広大にする。
わたしたちの美意識のひとつには、簡潔さがあり、全体に生かない部分は全て削ろうと図る。
たとえば、茶道や造園などは極限の簡潔を目指す。この簡潔は、求心的な自己の探究とも言い換えられる。
簡潔は、見るもの、聞くもの、読むもの、感じるものを魅了するのである。
対比によってはじめてわかる日本語
あらゆる物事は、対比によって、その特徴が鮮明になるという性質がある。
たとえばわたしたちの性格が温厚や冷淡などと確立されるのは、他者との対比によってである。
だから漢文を学習することは、漢文と日本語とを対比することであり、日本語の特徴を鮮明にさせることであり、これに従ってわたしたちは日本語の理解を進めて、国語力を強化することができるのである。
感動は深みから生まれる|日本語の深み
漢文は日本語の根幹をなしているわけだが、どう根幹をなしているのかといえば、ひらがなや漢字、カタカナ、その構成の過程で実りある意味を孕んでくるのである。
換言すれば、漢字に本質的な意味を含ませている、ということである。
したがって、漢文の学習は日本語のもつ意味をさらに深く知ることであり、漢字のもつ意味の微妙な感覚(ニュアンス)を身につけるに役立つのである。
翻って日本語の根幹を知らないことは、日本語の表層しか知らないわけであり、これは訳のわからない土地に植樹するのと同じことなのである。
だから一寸でも樹を突かれるとぐらっとする。
人々に「なんでここに植樹したのか」と尋ねられれば、返答に詰まり、その軽佻浮薄に人々はそっぽを向いて、みな呆れ返るのである。
孕みある言葉だけが、わたしたちの探究心をそそり、わたしたちに感動を生ぜしめるのである。
文化を理解する姿勢を大切にすること|日本の今
ところでいま日本は人口減少社会に突入している。このままなにも経済対策を施さずに突き進めば、日本の国際競争力は急落して、どこかある国の傀儡国家となりかねない。
人口減少社会において、わたしたちには一人あたりの生産性を大きく向上させて、今よりもGDP(国内総生産)を高めることを求められている。
GDPを高める施策はいくつかある。もっとも期待できる施策は、海外の人に日本のモノ・サービスを購入してもらう「輸出」である。
なぜなら日本の人口が減少することは、すなわち国内の消費量が減少することであり、いくら生産しても消費のない「供給過剰」に陥るからである。
しかし日本が世界に誇れるモノは、もうない。
あるとしても、それは有数であり(たとえば漫画やアニメなど)、GDPを高めるのに充分ではない。
日本が世界に誇れるものは「四季の景観」と「自国の文化」とによる美しさ、そのサービス、観光産業ではなかろうか。
ところで「あなたが日本で観光するべき理由」を海外のサイトで調査したところ、その理由として上位には「社寺建築のすばらしさ」や「街のきれいなさま」や「景観のすばらしさ」を挙げていた。そしてもっとも興味深い理由として「日本人の礼儀正しさ」や「寛容」を挙げていた。
観光産業を支えるのは日本文化の理解
外国人が観光目的で来日する施策(インバウンド)は、好調である。
10年前のデータと比較すると、訪日観光客数は2018年は3,100万人、リーマンショックの起きた2008年は830万人である。
その要因は、インバウンド施策だけではなく、絶壁であった言葉の壁が、ゆるやかに整備されているからであろう(多言語対応)。もちろん東京五輪に向けての盛り上がりも考えられる。
しかし楽観視はできない。訪日観光客数のおよそ9割がアジア圏内の人であり、そのほかの圏(ヨーロッパやアフリカ、北・南アメリカ、オセアニア)の訪日観光客数は全体の1割である。
これは日本との空間の隔たりが大きい理由(物理的要因)がもっぱら挙げられるが、わざわざ日本に来る理由(魅力)がないことも挙げられる。
漢文の学習と日本と
文化の理解およびその姿勢が、文化を文化たらしめて、日本を魅力のある国へと進歩せしめるのである。
形式だけの形骸化されたサービスは、どこの国であっても模倣できる。
文化の理解は、身体から繊細な、微妙な感覚の表現が生まれることを意味する(心身一如)。
「漢文の学習」は、その第一歩。
文化を理解するための、日本を理解するための第一歩なのだ。
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