立派な文章をつくるには、言葉の語源を知ることが必要である。たとえ美しい理想をもっていたとしても、それを表現する言葉のもとの意に背くことになれば、虎を描いたつもりが犬になっていたというように、言葉は本来の力を発揮しない。
本稿の主題の「光」という字は「火+儿(人)」の会意字であり、それは〈人の頭上に火光をしるし、火を掌る人を示す。光明の意〉(『字通』)という。
ほとんどの文字はその意を引伸して用いるのであるが、こうして光の字源をみると、水のきらめきに「光る」と表現するにも考えさせられてしまう。(水のゆれ光るさまは「洸」の字を用いる)
このように、ここでは言葉の語源・漢字の成立当時の字源から出発して、光の表現(形容語)について考えてみたい。
光の状態をあらわす漢字・熟語
燦爛(さんらん)の意味
「燦爛」は「燦」と「爛」という字に分けられる。
「燦」はもと声符。粲の声。白川静『字通』に〈粲は精米(上は残骨をもつ形。色の抜けた白さをいう)。その白く鮮麗の意をとり、燦爛としてかがやくことをいう〉とある。「燦」の訓義には「しらげたこめ」「しらげる」「あきらか」とある。
「爛」も声符。蘭の声。『字通』に〈火を加えて熟する意〉とあり、〈爛熟の意より、ただれ、腐爛の意となる〉。『詩経 唐風』に〈角枕粲兮,锦衾爛兮〉とあり、角枕と錦布団の美しさを詩う。
また谷崎潤一郎『刺青』の結末に「燦爛」が用いられている。女の背に刺青をいれて装飾する場面で〈……折から朝日が刺青の面にさして、女の背は燦爛とした〉とある。
以上をみるに、「燦爛」は、米のように白く鮮麗な、また、紅葉のように赤く燃えるような状態の光をあらわすのであろう。なんとも生々しさを感じる語である。
絢爛(けんらん)の意味
「燦爛」の生々しく燃えるような光に対して、「絢爛」は、人工的に演出・造形されたかがやきを表現すると思われる。たとえば、パーティー、家具、衣装、建築物など。
「絢」の声符は旬。〈旬に眴の声がある。目をおどろかすような文彩の美をいう〉(『字通』)とある。眴には眴せ、目配せの意味もある。
先述したとおり、「爛」は〈火を加えて熱する意〉である。
そこで、「絢爛」は、文章や絵画など人工的な文化のかがやけるもの、それから引伸して、家具・衣装・建築物など眩い光を表現するのだろう。
煥発(かんぱつ)の意味
「煥」の声符は奐。〈奐は分娩するさま。(産婦の股から次々に赤子をとり出す形。)水の散るさまに移して渙といい、火のかがやくさまには煥という〉。また「発」の字は〈旧字を發に作り、癶+弓+殳。癶は両足を開いて立つ姿勢、下部は弓を射る形。開戦に先だってまず弓を放つ意〉(『字通』)
『論語』に〈焕乎其有文章〉とあり、また、成句に「才気煥発」とある。そこで、煥発とは、すぐれたものがひらめくときなど、ほとばしるような光を表現するかと思われる。
炯々(けいけい)の意味
炯は声符。冋の声。冋は境界の象。
鴎外『妄想』に〈さう云ふ時は翁の炯々たる目が大きく目爭(みはら)れて、遠い遠い海と空とに注がれてゐる。これはそんな時ふと書き捨てた反古である〉とある。
「炯々」とは、はるか遠くの理想郷を思うとき、目がかがやくさまをいうのであろう。ところで「理想郷」とは「どこにもない」という意味である。
赫赫(かくかく)の意味
「赫」は会意字で、赤+赤。〈赤は火光を浴びている人の姿で、聖火で身を清める意〉、〈人の威容成徳をほめる語〉(『字通』)とある。
『詩経』に「王赫斯怒」とあり、怒りの表現に用いられている。心が瞋恚に燃えるようなときに「赫赫」と表現するのであろう。
煌煌(こうこう)の意味
声符は皇。〈皇は玉鉞の輝きをいう字で、煌の初文。『説文』に「煌煌、輝くなり」『玉篇』に「光明なり」とあり、きらめくような輝きをいう〉(『字通』)。
おそらく、皇の字の鉞は支配者の象徴であろうから、「煌煌」は、一国一城の主たる栄誉の光を表現するものであろう。
皓皓(こうこう)の意味
皓の声符は告。〈告に浩・誥(こう)の声がある。【訓義】しろい、しろく光る〉(『字通』)
『詩経』に〈月出皓兮〉とある。「皎月」(しろく光る月)、「皓歯」(しろく光る歯)、「皓雪」(まっ白の雪)など、皓々はしろく光る状態を表現する。
玲瓏(れいろう)の意味
玲は声符。令の声。〈『説文』に「玉聲なり」とあり、玲瓏のように双声の連語として用いる。【訓義】たまのおと。ゆらめく、かがやく〉、また「瓏」の項に〈玉声を玲瓏というのは、その擬声語。またかがやくさまをもいう〉(『字通』)とある。
「光」よりも「音」に重きがおかれているようである。玉のきらりとした光を表現するには「玲瓏」であろう。
鮮明(せんめい)の意味
「鮮」は「魚」と「羊」と、ともに腥臭の意。新鮮なものは腥臭(なまぐさいにおい)があるという。また「是+少(せん)」の音に通じ、少ない、とぼしいの意。
「明」の字は〈正字は囧月。囧は窓の形。窓から月光が入りこむことを明という。そこは神を迎えて祀るところであるから、神明という〉(『字通』)とある。
「生々しい」+「神的な、明かり」で、鮮明は嘘偽りのない真実の光をいうのであろう。
ところで『論語』に〈子曰く、巧言令色、鮮なし仁〉とある。この文意は、ことばを巧みに飾りたてたり、外見を善人らしく装うのは、実は自分のためというのが本心であり、「仁」(他者を愛するきもち)は少ない、これを鮮なくすることが「仁」、すなわち「人の道」である、ということ。これはまた文章の道にも通じると思われる。
壮麗(そうれい)の意味
「壮」の字は、『説文』に〈大なり〉とある。特定身分の集団を将いる字。その指揮官を将といい、壮はその年齢階層的なよびかたという。
「麗」は、〈初文は丽。上部の丽(上部は「-」ではなく「- -」)。鹿皮を並べた形とされるが、卜文・金文の字形は鹿角を示すものとみられる。(……)一対の鹿皮の意に用いるのは、後の用義である。それより夫婦を伉儷という。鹿皮も美しいが、鹿角一双もまた美しいもので、もとは鹿角の美を麗といったのであろう〉(『字通』)とある。
※()内は筆者。陰陽の記号に関係しているかもしれない。
「壮麗」は、生命の雄々しさ、野生的な、原始的な魅力の美しさをいうのであろう。「壮麗」は人・動物に用いる語と思われる。
おわりに
用字を違えると、その発言は至らずどこかへ飛んでゆく。言葉が真実力を発揮するには、筆者の人間性を高めることはもちろん、漢字の成立した当時を温ね、これに精通することが必要である。
本文でたびたび引用させていただいた白川静『字通』は、文章家の座右の書です。一家に一冊、いや、一人一冊。すべての人に、心からおすすめできる本です。
令和二年 十二月
令和三年 九月 改
令和五年 二月 改
関連するもの:
コメント