生まれながらにして人間は自由と平等であるが、それを知らないものが大衆であろうか。本来自由であり平等である人間が「不平等」といわれるのは諸々の社会制度ゆえである。
生まれながらにして金力をもつ実力者は、生活に須要である衣食住に縛られない自由があり、その自由の向かう先は高尚なる趣味であり、芸術、学問、慈善活動、権力闘争などである。しかし金力をもたない大衆は、生活に須要である衣食住に縛られなければならない。給料日までの生活費の計算に頭は枯れ果ててしまい、高尚なる趣味に向かうための養分が不足している。
自由が徒らに消費されている一方、自由が実に有益に社会に消費されている一方がある。「大衆の自由」と「実力者の自由」との方向性の相違、これが不平等の実様である。力をもたず従って自由をもたない大衆が、かかる不平等を解消するためには、孤独をはじめとする禁欲と、大衆に特有の武器とが大きな力となる。
生まれてから今日まで苛酷な環境に身をおいている大衆は、その環境に適応せんとして繊細なる感覚を研ぎ澄ませ、人間の人情という“つぼ”を感知して、老子問わずして、そこに針を通して生活している。そのように生活に即した繊細なる感覚を研ぎ澄ませた結果、われわれ大衆は、感覚を倒錯せられ、その代わりには「幇間のような妙技」が培われた。「幇間のような妙技」とは、顔色の変化や雰囲気の流れに敏感にしたがってその場に馴致する大衆に特有の能力である。この「幇間のような妙技」こそが、実力者のついぞ持ち得ない、大衆だけに与えられたものーー不平等を解消するための大衆の武器である。
大衆が、みずからの属する集団から退会し、単独者となり、実力者と肩を並べ、勝利を手にするためには、この「幇間のような妙技」を活用せずにはいられない。
ところで実力者が「幇間のような妙技」をもたない原因は、その「技」をもたずとも生活に困らないからである。かれらは生活に須要なる「技」を発達させる代わりに、生活を装飾する「術」を発達させている。しかし「技」と「術」とは、その働きが違うのであり、生活に即した繊細なる感覚が職人「技」であり身体で磨くものであって、生活から退いた透徹した感覚が芸「術」であり思想により磨くものである。
では「幇間のような妙技」をいかに活用するのか、その疑問とは大衆が真の自由と平等とを知ったのちに解かれるであろう。生活に即した繊細なる感覚は、新しい諸芸の道を拓いて行くのである。
令和二年 十月
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