「名古屋人の車の運転は、荒れ狂っている」
という危険勧告が、全国に流行しているようである。しかしこの勧告は、当の名古屋人には全く意味をなさず、むしろ名古屋人の荒れ狂った〈あおり運転〉を助長させている。
というのは、第一に、だれであろうと車の運転手は、ハンドルを握った瞬間から車という小さな国の王様になり、まるで道徳的な性質が除かれた欲望のあらわな独裁者のようになるからである。
つまり、車の運転というのは人間の本性を暴露させるのだ。
第二に、「名古屋人の車の運転が荒れ狂っている」という危険勧告によって、当の名古屋人は「車の運転が荒いこと」を自明の前提として捉える。
すると、名古屋人のなかから他人の目を気にする道徳的な性質は失われ、何かひらきなおるような態度で「荒く運転すること」があたり前になる。よりいっそうと名古屋人の運転が荒れ狂うわけだ。
さらには、「あおり運転に注意してください」という「危険勧告」が全国に流布されることによって、社会の監視が車の運転手に集まることになる。これによって、危険で禁止されることを侵したくなる気性が車の運転手のなかでムラムラとわき起こり、よりいっそうと全国で交通戦争が活気盛んになる。
どういうわけか、だれかに何かを禁止されると人間は、それを侵したくなるのである。
さて、このような〈あおり運転〉への根本的対策は、人間の根本的性格を改造することが一等よい、けれどもそれは実際的ではなく不可能である。
このごろ流行のドライブレコーダーを車に搭載するという対策は、〈あおり運転〉に対する根本的対策として機能しない。なぜならそれは〈あおり運転〉や〈追突〉などといった車の事故を前提にしている対策だからである。
〈あおり運転〉に対するもっともよい対策は、独裁者のような車の運転手に道徳的な性質を思い起こさせることにある。
道徳性に訴える、〈あおり運転〉への対策方法
車は、ぶっきらぼうで無機的すぎるのであり、そこには精神性が(温かみが)感じられない。
「八百万の神」を信じている日本人は、あらゆるものから精神性をみいだす優れた想像力のもちぬしである。また、他人の目を異様に気にする、疲れやすい繊細な忖度力のもちぬしでもある。
車という小さな王国に運転手が居座ったときに周囲を見渡せば、そこは無機的で温かみの感じられない冷酷な景色のみが広がっている。
行手をさまたげる他車という侵略者が道路を闊走している。そのような独裁車は、またべつの独裁者にとってはきわめて不愉快な存在であるにちがいない。
些細なできごとが独裁者のかんしゃくを触発するのにはじゅうぶんであるため〈あおり運転〉のような運転によって、ほかの独裁者に対して天誅を下したくなるのだ。
〈あおり運転〉というのは、このように道徳的な性質が除かれた人間の本性がいっそうあらわな状態から発生する。
これが問題の核心である。
道徳性を思い起こさせる「あかちゃん」や「ぬいぐるみ」の存在
〈あおり運転〉に対する事前対策としては、車の運転手が、いついかなる場所においても、あるものから精神性を見いだせるような、道徳性を思い起こすようなきっかけをつくることである。
それには車のなかに「人形」あるいは「ぬいぐるみ」を飾るという方法がある。
この方法は、じぶんの身を守る術としてならじゅうぶんな効力を発揮する。車の背面に〈赤ちゃんいます〉というステッカーや〈かわいらしいぬいぐるみ〉のマグネットが貼られていれば、後続の車の運転手は、忘却されていた道徳的な性質をそれらから想起するだろう。
これにより車の運転手は、社会生活の我に帰るのである。
つまり、社会生活という大きな王国を前にして、車の運転手は車という小さな王国の独裁者であることを痛く思い知るのであり、独裁者に固有な傲慢性が除かれるのである。
おそらく、多くの車の運転手は実体験があるーー「Baby in the car」や「車椅子マーク」のステッカーが貼られた車を見かけたときに、先行車との車の幅を広く開けるという実体験が。
ドライブレコーダーという〈事後対応的〉な対策は無用である
これ以外にも、車にドライブレコーダーを搭載するという後続車(他人)に対する威圧的・抑圧的な対策もある。しかしこれは社会全体としてみれば極めていびつで、極めて危険な、無用な対策としかいいようのない。
そもそもの問題は、あらゆるものに精神性をみいだすことに道徳性を託した日本人の想像力が、車のハンドルを握ることによって無に転化することにある。
ドライブレコーダーは、〈あおり運転〉の根本的対策として機能しない。むしろ他人を威圧するため逆効果なのである。先に記した「危険で禁止されることを侵したくなる」という人間の性格が影響するのだ。
つまるところドライブレコーダーの搭載は〈事後対応的〉な対処法であり、抑止力がなく、事故が(あおり運転や追突などが)発生することを前提している。
またドライブレコーダーを搭載することは生活圏が監視された息苦しい社会をみずから構成し、みずからの生活をそこで、息苦しい社会で送ることを意味している。抑圧された欲望はどこかで爆発する。ドライブレコーダーが日本に大量に普及すれば、恥が大嫌いな日本人はドライブレコーダーの未搭載のじぶんの車に不満を覚えるだろう。
ドライブレコーダーは個人的利益の追求のような側面があり、ときを経て、それが逆効果となり、じぶんの首を絞めるようなことにつながる。
じぶんの身はじぶんで
行政国家から司法国家への歩み、というのは「じぶんの身はじぶんで守るしかない」という意味が込められている。
現代社会はだれが何を言おうが結局のところ、じぶんの身はじぶんで守るしかないのである。
私がここで主張したことは、車の〈あおり運転〉への根本的対策としてはドライブレコーダーは無用であり、日本人の道徳的な性質を思い起こさせるような対策が一等よい、ということである。
それには「あかちゃんが車に乗車していることを知らせるステッカー」を貼ることや、車の後部座席に「かわいらしいぬいぐるみ」を飾ることが有効であると思われる。
令和二年 五月
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